琥珀色の戯言

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【読書感想】銅像歴史散歩 ☆☆☆☆


銅像歴史散歩 (ちくま新書)

銅像歴史散歩 (ちくま新書)


Kindle版もあります。

銅像歴史散歩 (ちくま新書)

銅像歴史散歩 (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)
明治期に欧米から入ってきた「銅像」文化は日本人に合っていたらしく、日本風にアレンジされて各地に次々に建てられていった。明治期後半には偉人の像、昭和初期には全国の小学校に二宮金次郎像、近年はアニメのキャラクター像なども立ち、第三次ブームと呼べるほど増え続けている。それぞれの銅像の背負っているものを掘り下げていくと、日本の近現代史が見えてくる。


 「銅像」は好きですか?
 などと問われても、大部分の人は「いや、好きとか嫌いとか、そういうものでもないというか、まあどうでもいい」というのが本音ではないでしょうか。
 でも、こうして、さまざまな銅像が紹介されている本を目の当たりにすると、ついついレジに持って行ってしまう僕のような人間もいるわけで。
 

 いまの日本で知られている銅像といえば、渋谷の「ハチ公」、上野の「西郷さん」、高知の桂浜の坂本龍馬像、といったところでしょうか。
 それ以外にも、さまざまな場所に、地元の偉人などの銅像があるのですが、あと有名なものといえば、そうだ、さっぽろ羊ヶ丘展望台の「クラーク博士像」なんていうのもあったなあ。
 ちなみに、羊ヶ丘のクラーク博士像は1976年に制作されたもので、実は僕より若いんですね。知らなかった。もともとは北海道大学の構内に胸像があったのですが、多くの観光客がやってきて学業に支障が出るということで、観光客の立ち入りが制限され、かわりにこの全身像がつくられたのだそうです(ちなみに、クラーク博士像の話は、この新書のなかには出てきません)。


 日本で銅像がつくられはじめたのは、明治維新後、もう19世紀も終わりに近い時期でした。

 日本初の美術教育機関として設立された工部美術学校で、お雇い外国人のイタリア人彫刻家ラグーザに学んだ大熊氏広が、欧州留学をした上で、日本初の本格的西洋式銅像とされる東京・靖国神社大村益次郎像を完成させたのは1893(明治26)年。ただし、日本の銅像づくりは単に西洋の模倣をするだけでは終わらなかった。着物を着せたり、正座させたりと欧米にはない形の銅像が次々に登場した。仏師出身の高村光雲や、鋳物師ら伝統的な技術を持つ職人が制作に参加し、日本風にアレンジされていった。あんパンのように、輸入した西洋文化を日本風に変えてしまう日本人の巧みさは銅像にも生かされた。
 胴長短足の日本人に銅像は向かないとの批判もあったが、もともと仏像や地蔵の文化があったからだろうか、銅像は日本人に合っていたようで、瞬く間に各地に建てられた。明治末期には「東京銅像唱歌」なる歌も登場するなど、常に世間の注目を集めた。早くも1928(昭和3)年刊の『銅像写真集 偉人の俤(おもかげ)』には600体を超える銅像の写真が掲載されている。この後、小学校に二宮金次郎像を建てるブームが起き、日中戦争が始まって軍国主義が高まる中で、軍人像も多数建てられて、さらに数を増やした。


 一時は「銅像ブーム」とまでいえる状況で、高村光雲さんは「銅像つくる会社をつくったら儲かるのではないか」と考えていたそうなのですが、これらの銅像は、大きな試練にさらされることになります。
 それは、太平洋戦争での「金属類の回収」でした。
 全国各地の銅像は、溶かして武器に変えられるために、どんどん撤去されていきました。
 なかにはそれを、国のための「出征」と称して、ものものしい「出征式」が行われたこともあったそうです。
 『少年H』という映画のなかに、その「二宮金次郎銅像の出征式」の様子が描かれているのだとか。
 現代からみると、たいへんバカバカしく、そして、物悲しいエピソードではあります。

 政府の特殊回収銅物件審査委員会の1943年の答申によると、銅牌や仏像なども含めて計9236件のうち、存置と決まったのは皇室関係の銅像や神像など279件で、わずか約3パーセント。当時の代表的な彫刻家だった北村西望朝倉文夫銅像救出委員会をつくり、回収を止めようと政府に働きかけたが、かなわなかった。西望の自伝『百歳のかたつむり』(1983)では944体の銅像を確認し、残ったのは61体で、6パーセント強だったと報告する。ほとんど根こそぎという感じで銅像は一斉に日本から消えた。

 この「受難の時期」を乗り切ったのは、ごくわずかな割合の銅像だけでした。
 1928年につくられた、高知県桂浜の「坂本龍馬像」は、除幕式に海軍が関わっていたために、回収されずに済んだそうです。
 また、関係者が隠しとおして、戦時中を生き延びた、という銅像も存在します。
 戦後はGHQの指導で軍人の像が撤去され、戦前の銅像はさらに減ったそうです。


 この本のなかで、著者は、「どのような人物や場面が銅像として描かれたのか?」が、戦後の人々の思想の変化を反映している、と述べています。
 「白虎隊」については、太平洋戦争までは「生きて虜囚の辱めを受けず」として、城が燃えているのをみて自決した若い(いまの高校生くらいの年齢の)隊士たちが讃えられていました。
 維新後、生き残った隊士たちは、肩身の狭い思いをしていたそうです。
 しかしながら、太平洋戦争を経て、風向きは変わりました。

 戦後に白虎隊記念館が開館して飯盛山会津観光の目玉に。平成に入って、北海道旭川市で士中二番隊の生存者だった酒井峰治が書き残した手記「戊辰戦争実歴談」が見つかり、1993年に記念館に寄贈された。この手記によると、峰治は戦場からの撤退時に仲間とはぐれ、飯盛山山頂に向かわなかった。峰治も自決を考えるものの、村人らに助けられ、偶然、愛犬に再会し元気を取り戻し籠城戦に参加したという。城に戻らず立ち去った隊士がいたことなど新たな事実も判明した。
 峰治が愛犬と再会する場面を再現した銅像が1994年、記念館前に建てられた。白虎隊士の像は会津若松市のJR会津若松駅前や記念館前にあるが、これらには自決した隊士をたたえる意味も込められているだろう。ところが、峰治の像は生き残ったために建てられた。生き残ることが恥ではなく、たたえられる時代になったことを峰治の銅像が示した。銅像は世相の移り変わりさえも表す。

 「忠義を尽くして死ぬこと」が称揚された時代から、「生き延びること」が正しい、とされた時代へ。
 とりあえず、��像が「出征」するような時代には、もうならないでほしい、と願わずにはいられません。
 人間が絶滅して、銅像だけが残る地球、なんていうのも、想像できなくはないのですけど。