参考リンク(2):父親の、なり方。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
うちの息子、今日で5歳になりました。
生まれたときは、どうなることやら、と思っていたのですが、なんだか僕自身は何もできないままに、妻や周囲の人々のおかげで、ここまで生きてきてくれて、喋ったり、遊んだりするようになってくれています。
息子が生まれて、まだ片手で抱えられるくらいの生き物として家にやってきたときには、どう接していいのかよくわからない、というか、当直明けの夜泣きがつらくて、こりゃ、家で毎日当直しているようなものだ……と思っていました。
かわいい、というよりは、夜泣きのときにあやしたり、おむつを替えたり、ミルクをあげたりする「ミッション発生装置」がそこにある、という感じでした。
息子も、しばらくは僕に対して「父親」というよりは「ときどき家にいる人」という雰囲気で、なんだか素っ気なくて、気持ちが通じ合わないことに、物足りない気持ちがありました。
さわると壊れそうだし、ちょっと油断してぞんざいに扱うと妻に怒られるしで、なんだか怖かった。
1歳半の夏休みに旅行にいったとき、ホテルのベッドで「ミニカーあそび」をして、息子が笑いかけてくれたとき、はじめて、少しだけ気持ちが通じたような気がしました。
でも、それからも、ワガママだったり、あまりにもスローペースだったりする息子に、何度も何度もいらだちました。
激しく叱責したこともあります。
「子供だから、あたりまえ」なはずなのに、負の感情のまっただ中にいると、「怒っている自分に、さらに怒りが増していく」ような気がするのです。
妻や義父母が、そんなときに助けてくれなければ、とんでもないことをしていたかもしれません。
小さな子供というのは、つねに誰かが傍らにいなければならない存在で、お互いに仕事を持ち、比較的自由というか、それぞれのペースで生活していた僕たち夫婦は、かなりのストレスを感じていたのも事実です。
「あなたは仕事で外に行けていいわね」なんて言われて、「でも、仕事だぞ……」と苛立ったことも少なからずあります。
夫婦の諍いもありました。いや、今でもあります。
一度、息子がふたりの間に「もうやめて」と仲裁に入った姿をみて、30年前の自分をみているようで、情けなくなりました。
自分が親にされていてつらかったことを、いま、自分の子供にやっているんだな、って。
「子はかすがい」という言葉の意味もわかってきました。
というか、子供がいると、夫婦ゲンカもしていられないんだよね。
吉田豪さんの対談集『サブカル・スーパースター鬱伝』の唐沢俊一さんとの対談で、こんな話が出てきます。
吉田豪:結局、サブカルの鬱的なものってなんだろうと考えたときに、体力的な問題が一番大きいのは確実ですけど、40代になって外的要因が増えるなっていう気がしたんですよ。それは、離婚だとか両親の病気だとかそういうことで。
唐沢俊一:そういう意味では、母親と半同居(マンションでの隣同士)になって、朝夕一緒にメシを食うという、あれがいけなかったな。うちは夫婦同業だから、それまでは起きたときから寝るまで、完全に”サブカルギョーカイジン”でいられたわけ。メシ食いながら、資料の死体ビデオとか見ていたわけですよ、夫婦して(笑)。ところが、母親と一緒のときは常識的社会人に戻らないといけない。あのスイッチングが凄く体力的につらいのね。
吉田豪:日常が地味なダメージになるわけですね。
唐沢俊一:サブカルチャー畑の人ってのは、完全に一般社会とは常識を異にした異端の世界の淵に自分を追い込んで、それを商品にして食ってくものなんですよ。それが、母親と向き合うときには親戚のガキが進学したとか病気になったとかいう話に合わせなければいけない。ウチの弟なんかはギャグの矛先を鈍らせないために、親戚付き合いとかは一切断ってるぐらいなのに(笑)。
これは「母親との同居」についての話なのだけれども、子供の場合は「ひとりにしておく」ことができないので、なおさらこの「自分にとってめんどくさい現実と向き合うストレス」は大きくなります。
(架空の漫画家・桜タモ吉さんと妻の会話の一部)
タモ吉:(娘に)今度の日曜日、川原に行こう
妻:あ、日曜ダメだ!タニさんとこで一寸早いけど子供らのクリスマスパーティー
タモ吉:えー、そうなのかウイーンガシ!
妻:アナタもたまには参加しない?
タモ吉:……んーーー
妻:ハナパパは、絵がうまいから、子供らから尊敬されてるしー
タモ吉:チビどもの相手だけならいくらでもするけど
妻:田中さんとこも、小野寺さんとこも、小林さんとこも、いつもパパさん来るよ
タモ吉:その小林のオヤジと酒飲みたくないんだよ。
妻:……またそんな事言う
タモ吉:あの土建屋のオヤジとはウマが合わないんだよ。前、芋煮会の時に「マンガとか小説とか、虚業で人騙してエラソーに食ってるヤツは大っ嫌いだ!」って、面と向かって言いやがった。
妻:子供の為なんだしさあ、他のパパさん達みたく、仲良くやれないの?
タモ吉:あのへん、みんな小学校からの地元つながり。今度飲んだら、多分ケンカになるよ
妻:……
あなたほんっと、ガンコになったよねー!昔イラスト描いてた頃とか、もっと柔軟に、いろんな人と付き合えてたじゃん?
タモ吉:ゲシシッ 虚業で食えちゃってドーモすいやせーんとへりくだれと言ってる?
妻:バカだね。そうじゃなくって、今この人達とどんな目的で集まってるかを考えれば?って言ってるの!仕事の場でそんな奴がいたらケンカすりゃいいさ。でも、これ、子供らの為の集まりでしょう?酒グセがちょっと悪い土建屋のオヤジから何言われようが、フフーンて軽く受け流しとけばいいじゃない!
タモ吉:うん。あなたの言っている事が、多分正しい。
でも…悪い。無理。
子供がいると「日常」を強く意識せざるをえません。
親同士の関係、というのもあるんですよね。
みのもんたさんじゃありませんが「親が○○だから……」というような話題に閉口してしまうこともあります。
正直、いまだに「自分はこの子の父親である」という自信って、あんまりないんです。
すごく気難しくて、(良くも悪くも)子供のくせに納得できないことは絶対にしないところとか、トミカが大好きなところとか、本ばかり読んでいるインドアなところとかは「ああ、これは僕の困った面を受け継いでいるのかな」と申し訳ない気持ちになることがよくあります。
でも、そういうところが、僕と息子を繋いでいるような気もして。
あと「言葉でコミュニケーションをとれるようになる」というのは、本当に大きいな、と思いました。
言葉が出るようになって、ようやく息子が何を考えているのかの一端がわかるようになりました。
ただ、振り返ってみると、なんだかすごく面白い体験をしている、という気もするんですよね。
「人が普通に成長して乳児から幼児、少年(少女)になる」という営みを身近なところでみる機会なんて、自分の子ども意外では、まずありえません。
5歳になってから写真を振り返ると、3歳のとき、いや、1歳のときの写真にも、未来の「片鱗」がうかがえるんですよね。
ものすごくあたりまえなんだけど、生きている人間の日常は、連続してるんだなあ、と。
そして、それを連続させていくというのは、本当に大変なことなんだよなあ、と。
最近は高畑勲監督の『かぐや姫の物語』の予告のかぐや姫の成長シーンを観るだけで、いろいろと思い出してしまって泣けてきます。
あのテーマ曲と映像は、反則だよほんと……
どうしたら「父親」になれるのだろう?というのは、いまだに、よくわからない。
『最後の授業 ぼくの命があるうちに』という、がんで余命いくばくもない大学教授が行った講義を基にした、素晴らしい本があります。
僕は子供のころの夢についてくり返し語ってきたから、最近は、僕が子供たちにかける夢について訊かれることがある。
その質問には明確な答えがある。
親が子供に具体的な夢をもつことは、かなり破壊的な結果をもたらしかねない。僕は大学教授として、自分にまるでふさわしくない専攻を選んだ不幸な新入生をたくさん見てきた。彼らは親の決めた電車に乗らされたのだが、そのままではたいてい衝突事故を招く。
僕が思う親の仕事とは、子供が人生を楽しめるように励まし���子供が自分の夢を追いかけるように駆り立てることだ。親にできる最善のことは、子供が自分なりに夢を実現する方法を見つけるために、助けてやることだ。
だから、僕が子供たちに託す夢は簡潔だ。自分の夢を実現する道を見つけてほしい。僕はいなくなるから、きちんと伝えておきたい。僕がきみたちにどんなふうになってほしかったかと、考える必要はないんだよ。きみたちがなりたい人間に、僕はなってほしいのだから。
たくさんの学生を教えてきてわかったのだが、多くの親が自分の言葉の重みに気がついていない。子供の年齢や自我によっては、母親や父親の何気ない一言が、まるでブルドーザーに突き飛ばされたかのような衝撃を与えるときもある。
(中略)
僕はただ、子供たちに、情熱をもって自分の道を見つけてほしい。そしてどんな道を選んだとしても、僕がそばにいるかのように感じてほしい。
僕も「きみがなりたい人間に、なってほしい」と思う。
その一方で、僕は子供の頃に「なりたい人間」の具体的なイメージを持てていなかったような気がするのです。
どのくらい、親による介入が必要なのだろう?
「育児に正解はない」としか言いようがない。
人類が生まれ、長い間「育児」という営みを続けてきたけれど、いまだに「絶対的な正解」は確立されていません。ひとちひとりが違うし、時代背景も違う。
『そして父になる』という映画を観ました。
(参考リンク:映画『そして父になる』感想(琥珀色の戯言))
僕はいまだに、この映画のラストのことを考えます。
福山雅治さんが演じていた良多は「父になれた」のだろうか?
そして、リリー・フランキーさんは「子どもと長い時間をすごし、一緒に遊んでいた」から、「良い父親」なのか?
医者なんて仕事をやっていると、ジレンマに陥ります。
「患者にとって、良い医者」というのは、朝早くから夜遅くまで病院にいて、休日も回診し、勉強を欠かしません。でも、病院にいる時間は、家にいない時間でもあります。
逆に「マイホーム医者」は、すぐ家に帰ってしまうタイプで、病院側にとっては「あまり熱心ではない医者」です。
コピーロボットでもいないかぎり、「職業人」と「家庭人」のせめぎ合いは続くのです。
そもそも「仕事を中途半端にしかせず、家にさっさと帰っていくような父親」が、子どもにとって「良い父親」なのか?
もっとも、「病院にも家にもいない」というパターンもあるのですが。
「父親の役目を果たそうとして、試行錯誤し、溺れながら足掻くこと」そのものが、「父親になる」ことなのかもしれないな、と思うのです。
まず、「父親になれていない」ことを自覚しないと、「父親になる」ことはできない。
でもまあ、そういうのって、こちら側の勝手な思い込みでしかなくて、「パパ」と呼んでくれる子どもがいることこそが、唯一無二の「父親の条件」なのかもしれないけれども。
結局、絶対的な正解なんて、ないんだよね。
もう5歳という年齢を考えては、あと何回一緒にミニカーや積み木で遊んでくれるのだろうな、と先のことを想像してせつなくなる一方で、早い時間に寝ついてくれた日には「今夜はちょっと自由だ!」なんて喜んでもいます。
子供がかわいくてしょうがなかったり、ちょっと憎たらしく感じたり。
僕は悪くない父親だ、と高揚したり、父親失格だ……と落ち込んだり。
そんなことを繰り返しているあいだに、5年も経ってしまいました。
人生って、相撲でいえば、9勝6敗くらいで万々歳だな、と、最近よく思います。
完璧な父親なんて存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
息子よ、三流パパだが、もうしばらく、よろしく頼むぞ。
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