岩見隆夫のサンデー時評(8/29)「まるで日本全体がビョーキみたい」
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/iwami/sunday/news/20060829org00m010025000c.html
岩見さんが書かれている内容に関しては、僕にも頷けるところはあるんです。でも、この文章全体を読んでいて感じるのは、「この人は、本が、文学が好きじゃないんだな」ということでした。そもそも、あんまり小説読んでないんじゃないのかなあ。
ところで、今回は同じ賞でも芥川賞のことを書く。二年前の春、第百三十回を受賞したのは二十歳の金原ひとみさんだ。作品の『蛇にピアス』を読んでみて、私はびっくりした。一体、これが文学かと。
内容の意外性がうけたのか、単行本は百万部近い大ベストセラーになったが、私は当コラム(三〇五回)で、
〈文体は達者でリズムがあり、読まされてしまう。が、読後感は耐えがたい不快、としか言いようがない〉
と毒づいたのを覚えている。それ以来、芥川賞作品は読んでいない。読む気になれなかった。
ここについてなのだけれど、僕も「蛇にピアス」の「読後感が不快」だったという点には賛成なのです。
でも、「蛇にピアス」って、そもそも、「不快感を抱かせることを覚悟して書かれた小説」なのですよね、たぶん。
むしろ、あの内容で「爽快だった!」という人が多いほうが異常であるわけで、そういう「読後感」と「作品の価値」というのは、必ずしも一致しないはずです。確かにビョーキの話ばっかりじゃ嫌だけど、逆に、みんなが「お涙頂戴モノ」とか「勧善懲悪の単純なヒーローもの」ばかり書いていたら、それはそれで面白くないと思うしね。
つまり、この人は、カレーに対して、「こんな辛いものは、食べ物として認めない!」って怒っているのと同じことなのです。
いや、あなたが「カレーが嫌い」なのはしょうがないし、それは「好み」の問題だとしか言いようがない。でも、料理評論家であれば、「そのカレーが無価値なものか?」というのは、「カレーの歴史や世間一般の人々の嗜好」に照らし合わせてみなければならないはずです。僕に言わせれば、そんな「不快になるような小説を読了させた『蛇にピアス』の作品力」は、たいしたものですし、岩見さん自身は罵倒しているつもりなのかもしれませんけど、これって結果的にものすごく「蛇にピアス」を褒めていますよね。
「自分が嫌い」だから「無価値」だと断言できる人は、少なくとも、公の場で「評論」めいたことを書く資格はないと思います。
いや、そもそも偉そうに「ビョーキの話ばっかり」とか書いている某都知事の受賞作だって、当時の人からみれば「ビョーキの話」だったのではないかと僕は想像していますし、村上龍さんの「限りなく透明に近いブルー」だって、「なんだこのエロ小説は!」と高校時代の僕はものすごく気持ち悪かったです。
考えようによっては、新人作家というのは編集者が資料集めをしてくれるわけではないのだから、どうしても「自分の経験を踏み台にした話」になりがちなはずです。それで、普通の人が自分の経験のなかでインパクトのあるようなネタを探すとなると、「セックス」とか「ビョーキ」の話しかないのかもしれませんね。