コンテンツにスキップ

杵埼 (給糧艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
杵埼
公試中の雑役船公称番号第4006号 (1940年9月、大阪湾)
公試中の雑役船公称番号第4006号
(1940年9月、大阪湾
基本情報
建造所 大阪鉄工所桜島工場
運用者  大日本帝国海軍
艦種 雑役船(1940年7月)
特務艦(1942年4月)
級名 冷凍船(千瓲)(1940年7月)
杵埼型運送艦(1942年4月)
建造費 1,574,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 昭和十四年度計画
起工 1940年3月7日
進水 1940年6月27日
竣工 1940年9月30日
最期 1945年3月1日被爆沈没
除籍 1945年5月10日[注釈 1]
改名 公称番号第4006号(1940年7月)
南進(1940年10月)
杵埼(1942年4月)
要目(竣工時)
基準排水量 910トン
全長 62.29m
垂線間長 58.00m
最大幅 9.40m
吃水 3.11m
機関 艦本式23号甲8型ディーゼル2基
推進 2軸
出力 1,600bhp
速力 15.0ノット
燃料 重油57トン
航続距離 3,500カイリ/12ノット
乗員 (1942年4月1日)
定員56名
特修兵教員最大26名
搭載能力 生糧品82トン
真水71.7トン[注釈 2]
兵装 40口径8cm高角砲 単装1基
13mm機銃 連装1基
爆雷8個
搭載艇 短艇2隻
テンプレートを表示

杵埼(きねさき)は、日本海軍の特務艦(運送艦)[注釈 3]杵埼型運送艦1番艦。当初は雑役船として計画され竣工したが、太平洋戦争中に特務艦となった。太平洋戦争末期、輸送任務中に撃沈された。

計画と船型

[編集]

1938年10月28日に「支那事変に関する第三次戦備促進に関する件商議」が海軍大臣に対して提出されたが、その中には小型冷凍船(約500トン)2隻の整備が盛り込まれていた。これに基づき、昭和十四年度計画(第七十四回帝国議会の協賛を得て成立した昭和十四年度臨時軍事費)で建造されたのが1,000トン型の本船(後の杵埼)と、600トン型(後の野埼)である。

本船の運用実績を受けて、マル臨計画で同型3隻が建造されることとなったが、本船とマル臨計画艦とで大きく異なる点は以下のとおり。

  • 本船:前檣はヤード付き棒マスト、マスト基部にデリック2本。積載量は生糧品82トン、真水71.7トン[注釈 2]
  • 他艦:前檣は通風筒付きの鳥居型マスト、マスト基部にデリック各2本、計4本。積載量は生糧品84.6トン、真水71.7トン。

艦歴

[編集]

雑役船公称番号第4006号

[編集]

1940年3月7日、大阪鉄工所桜島工場で起工。6月27日、進水。7月1日、雑役船に編入され船名を公称番号第4006号[注釈 4]に、船種を冷凍船(千瓲)に、所属と供用先を佐世保海軍軍需部(支那方面艦隊司令部供用)に、定数別を臨時附属にそれぞれ定められる。9月30日、竣工。

雑役船南進

[編集]

1940年10月25日、船名を南進に変更。

1941年3月8日、供用先を佐世保海軍軍需部(第四海軍軍需部供用)に変更される。以後の1941年中はトラックサイパンパラオポナペクサイヤルートに対する糧��補給、連絡、特設運送船の荷役補助等に従事する。第四海軍軍需部長は海軍省へ提出した功績概見表中で、南進の存在とその功績を高く評価した[注釈 5]

1942年 特務艦杵埼

[編集]

1942年4月1日、特務艦籍に編入されて杵埼と命名され、杵埼型運送艦の1番艦に、本籍を横須賀鎮守府にそれぞれ定められる。第四艦隊附属に編入。4月1日現在、横須賀に在泊中。23日、トラックへ向け横須賀を出港。5月1日、トラック着。以後、各根拠地に対する糧食補給に従事。

5月3日、ラバウルへ向けトラック発。6日、ラバウル着。15日、内地へ向けラバウル発。20日、サイパンに寄港。26日、横須賀に帰投。横須賀帰投後、7月28日まで横須賀海軍工廠で修理を行う。7月28日、トラックへ向け横須賀発。

8月4日、トラック着。10日、内地へ向けトラック発。12日、サイパンに寄港。18日、横須賀に帰投。横須賀帰投後、9月1日まで横須賀海軍工廠で修理を行う。

9月1日、マーシャル諸島ギルバート諸島に対する糧食補給のため横須賀発。8日、ヤルート着。以後10日ミレ、11日マキン、12日タラワ、13日オーシャン、14日ナウル、17日クサイ、20日ポナペにそれぞれ寄港して糧食補給に従事。23日、トラック着。29日、マリアナ諸島に対する補給のためトラック発。

10月1日サイパン、4日ロタにそれぞれ寄港。7日、トラックに帰投。13日、ラバウルへ向けトラック発。17日、ラバウル着。20日、ラバウル発。24日、トラックに帰投。27日、内地へ向けトラック発。

11月3日、横須賀に帰投。6日横浜へ回航し、12月いっぱいまで同地で修理と改造工事を行う。工事終了後、横須賀へ回航。

1943年

[編集]

1943年1月7日、マーシャル諸島に対する糧食補給のため横須賀発。11日父島、14日大鳥島、17日クェゼリン、22日ブラウンにそれぞれ寄港し、31日横須賀に帰投。

2月11日、ギルバート諸島に対する糧食補給のため、3211C船団に同行して横須賀発。途中で分離し、22日クェゼリン着。3月1日マキン、2日タラワ、4日ナウル、5日オーシャン、7日ヤルート、9日クェゼリンにそれぞれ寄港し、20日横須賀に帰投。以後、4月下旬まで横須賀で修理と整備を行う。

4月26日、マーシャル諸島に対する糧食補給のため横須賀発。30日南鳥島、5月2日大鳥島、5日グリニッジ、7日クェゼリン、12日クサイ、15日イミエジ、17日タロア、18日ウォッゼにそれぞれ寄港。19日、クェゼリンに寄港して補給後内地へ向かう。29日サイパンに寄港。6月4日、横須賀に帰投。

1943年12月10日、ミレ付近でアメリカ陸軍機の機銃掃射を受ける杵埼

6月21日、マーシャル諸島とギ��バート諸島に対する糧食補給のため横須賀発。29日クェゼリン、7月1日ヤルート、3日クェゼリン、8日ヤルート、9日マキン、11日タラワ、13日オーシャン、14日ナウルにそれぞれ寄港。15日、クェゼリンに寄港。

8月1日、内地へ向けクェゼリン発。3日、サイパンに寄港。8日、横須賀に帰投。21日、横須賀発。27日、横須賀に帰投。

9月中の行動は不明。10月1日現在、軍隊区分内南洋方面部隊マーシャル方面防備部隊に配置。

10月6日クェゼリン、8日ヤルート、10日マキン、12日タラワ、15日ナウル、17日ヤルートにそれぞれ寄港。19日、クェゼリンに寄港。28日、マーシャル諸島内に対する糧食補給のためクェゼリンを出港。28日ルオット、29日ウォッゼ、31日タロア、11月1日ミレ、3日マロエラップ、9日ルオットにそれぞれ寄港。ルオットに在泊中の11日、空襲を受け損傷した。12日クェゼリンに帰投。

12月5日、マーシャル諸島内に対する糧食補給のためクェゼリン発。6日ウォッゼ、7日ミレ、8日ヤルート、9日イミエジにそれぞれ寄港し、10日クェゼリンに帰投。10日、ミレがアメリカ陸軍機の空襲を受けた際、付近を航行していた本艦はアメリカ陸軍B-24爆撃機の機銃掃射を受け損傷した。28日、クェゼリン発。1944年1月1日、トラック着。

1944年

[編集]

1944年1月20日、内地へ向けトラック発。31日、横須賀に帰投。帰投後、横須賀海軍工廠で4月6日まで復旧修理を行う[注釈 6]

4月1日現在、軍隊区分内南洋方面部隊附属部隊に配置。4月6日、東松四号船団に追及するため横須賀発。9日、海軍徴傭船美作丸が被雷した際、本艦は美作丸の遭難者を収容してサイパンで下艦させたのち、海軍徴傭船昭瑞丸と合同してトラックへ向かう。16日、トラック着。22日、内地へ向けトラック発。5月5日、横須賀に帰投。帰投後、横須賀海軍工廠で修理を行う。

5月29日、3530船団に加入してサイパンへ向け横浜発。6月7日、サイパン着。

6月11日、杵埼船団に加入してサイパン発。25日、奄美大島着。29日、佐世保へ回航のため奄美大島発。7月10日、佐世保着。8月下旬まで佐世保海軍工廠で修理を行い、その後は第四艦隊附属のまま南西諸島方面の輸送と補給に従事。

9月8日、タカ808船団に加入して鹿児島へ向け基隆発。20日、鹿児島着。

10月21日、カタ916船団に加入して那覇へ向け鹿児島発。25日、那覇着。

1945年 沈没

[編集]

1945年2月26日、カタ604船団に加入して那覇へ向け鹿児島発。3月1日、久慈湾に仮泊。同日、久慈湾内でアメリカ艦上機の攻撃を受け、被爆し沈没した。

5月10日、杵埼は杵埼型運送艦から削除され、帝国特務艦籍から除かれた[注釈 1]

杵埼特務艦長

[編集]
  1. 箟源三郎 予備大尉/予備少佐:1942年4月1日 - 1942年11月30日
  2. 神野則之 予備大尉:1942年11月30日 - 1943年6月16日
  3. 鶴岡儀平 予備大尉/大尉:1943年6月16日 - 1944年2月2日
  4. 田崎季夫 大尉/少佐:1944年2月2日 - 1945年3月23日

脚注

[編集]
注釈
  1. ^ a b 世界の艦船『日本海軍特務艦船史』p. 31、福井『写真 日本海軍全艦艇史』資料篇p. 艦歴表31、丸スペシャル『特務艦』p. 48のいずれも、除籍日を「(昭和)20年5月1日」としているが、該当日に艦の除籍に関する内令は施行されていない。
  2. ^ a b 真水の積載量は世界の艦船『日本海軍特務艦船史』p. 31による。丸スペシャル『特務艦』p. 29では57.7トンとしている。
  3. ^ 法令上給糧艦は存在せず運送艦だが、Wikipedia:記事名の付け方に鑑み、記事名は「(給糧艦)」とする。なお給糧艦の名称は戦時編制上、あるいは軍隊区分編成上の補給種別として存在する。
  4. ^ 本来の船名表記は"公稱番號第四〇〇六號"。なお、雑役船の船名は通牒上定められる(あるいは変更される)ものであり、命名(改名)ではない。
  5. ^ 第四海軍軍需部が功績調査部へ提出した功績概見表中、艦船名の記述があったものは南進だけであり、「(前略)灼熱の地にありて我南方策戦の推進原動力として(後略)」と記している。
  6. ^ 丸スペシャル『特務艦』p. 48では「4月18日まで修理」としているが、本艦は後述するとおり東松四号船団に追及するため4月6日に横須賀を発ち、4月9日には被雷した美作丸の乗員を収容している。
脚注

参考文献

[編集]
  • 海軍省
    • 昭和15年7月1日付 海軍大臣官房 官房第305号ノ6。
    • 昭和16年3月8日付 海軍大臣官房 官房第545号ノ2。
    • 昭和17年4月1日付 達第93号、内令第550号、内令第558号、内令第560号、内令第561号。
    • 昭和20年5月10日付 内令第401号、内令第411号、内令員第946号、内令員第947号。
    • 昭和17年4月1日付 海軍辞令公報(部内限)第837号。
    • 昭和17年12月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1002号。
    • 昭和18年6月16日付 海軍辞令公報(部内限)第1149号。
    • 昭和19年2月2日付 海軍辞令公報(部内限)第1311号。
    • 昭和20年3月31日付 秘海軍辞令公報 甲 第1760号。
    • 昭和16年7月14日付 四軍需機密第25号ノ1 第四海軍々需部支那事変第九回功績概見表。
    • 昭和16年12月10日付 四軍需機密第25号ノ2 第四海軍軍需部支那事変第十回功績概見表。
    • 横須賀鎮守府戦時日誌。
    • 第四艦隊戦時日誌。
    • 横須賀防備戦隊戦時日誌。
    • 第四海上護衛隊/沖縄方面根拠地隊戦時日誌。
    • 昭和19年4月24日付 東松四号船団部隊機密第6号 「東松四号船団部隊任務報告」。
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』、出版共同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9
  • 世界の艦船 No. 522 増刊第47集 『日本海軍特務艦船史』、海人社、1997年。
  • 福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』、ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第12巻 『マリアナ沖海戦』、朝雲新聞社、1968年。
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第31巻 『海軍軍戦備(1) -昭和十六年十一月まで-』、朝雲新聞社、1969年。
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第39巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(4) -第三段作戦前期-』、朝雲新聞社、1970年。
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第46巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(6) -第三段作戦後期-』、朝雲新聞社、1971年。
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第71巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(5) -第三段作戦中期-』、朝雲新聞社、1974年。
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第77巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(3) -昭和十八年二月まで-』、朝雲新聞社、1974年。
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第80巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(2) -昭和十七年六月まで-』、朝雲新聞社、1975年。
  • 丸スペシャル No. 34 日本海軍艦艇シリーズ『特務艦』、潮書房、1979年。
  • 明治百年史叢書 第207巻 『昭和造船史 第1巻(戦前・戦時編)』、原書房、1977年。
  • 歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 51 『真実の艦艇史2』、学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4