刈萱 (駆逐艦)
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艦歴 | |
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計画 | 1918年度(八六艦隊案) |
起工 | 1922年5月16日 |
進水 | 1923年3月19日 |
就役 | 1923年8月20日(第十八駆逐艦) |
その後 | 1944年 5月10日戦没 |
除籍 | 1944年7月10日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:820トン |
全長 | 83.8m |
全幅 | 8.08m |
吃水 | 2.51m |
主缶 | ロ号艦本式缶3基 |
機関 | オールギアードタービン2基2軸 21,500shp |
最大速力 | 35.5ノット |
航続距離 | |
乗員 | |
兵装 | 12.0cm単装砲3基 6.5mm単装機銃2基 53cm連装発射管2基4門 |
刈萱(かるかや)は、日本海軍の駆逐艦。若竹型駆逐艦の8番艦である。
艦歴
[編集]- 1923年(大正12年)3月 進水 - (藤永田造船所建造) 進水時の名称は第十八駆逐艦。
- 8月20日 - 竣工。
- 1924年(大正13年)4月1日 - 第十八号駆逐艦に艦名変更。
- 1928年(昭和3年)8月1日 - 刈萱に艦名変更。
- 1937年(昭和12年) - 日中戦争に参戦。華南沿岸の諸作戦に参加する。
- 1941年(昭和16年) - 駆逐艦籍のまま太平洋戦争に参戦。船団護衛、哨戒作戦に従事する。
- 1944年(昭和19年)5月10日 - ミ03船団を護衛中、ルソン沖北緯14度50分 東経119度20分 / 北緯14.833度 東経119.333度でアメリカの潜水艦コッドの発射した魚雷が2本被雷し戦没した。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』381-382頁による。
艤装員長
[編集]- 原顕三郎 少佐:1923年3月10日 - 1923年8月20日
駆逐艦長
[編集]- 原顕三郎 少佐:1923年8月20日 - 1925年12月1日
- 中原達平 少佐:1925年12月1日 - 1926年11月1日
- 猪瀬正盛 大尉:1926年11月1日 - 1927年12月1日
- 矢野志加三 少佐:1927年12月1日 - 1928年12月10日
- 伊藤 皎 少佐:1928年12月10日 - 1929年11月1日[1]
- 渋谷紫郎 少佐:1929年11月1日[1] - 1932年4月1日
- 有田 貢 少佐:1932年4月1日 - 1933年5月25日[2]
- 藤田友造 少佐:1933年5月25日 - 1933年11月15日
- 一門善記 少佐:1933年11月15日 - 1934年1月11日[3]
- (兼)中津成基 少佐:1934年1月11日 - 1934年2月1日[4]
- 勢 経雄 少佐:1934年2月1日 - 1934年10月22日
- 山隈和喜人 少佐:1934年10月22日 - 1935年11月15日
- 笹川 博 大尉:1935年11月15日 - 1937年12月1日[5]
- 吉田正一 少佐:1937年12月1日 - 1938年8月1日[6]
- 千本木十三四 少佐:1938年8月1日 - 1940年6月15日[7]
- 花見弘平 大尉:1940年10月15日[8] - 1941年9月1日[9]
- 中尾小太郎 少佐:1941年9月1日 -
- 益 満行 大尉:1942年10月13日 -
- 島田喜与三 大尉:1944年3月5日 -
脚注
[編集]- ^ a b 『官報』第854号、昭和4年11月2日。
- ^ 『官報』第1918号、昭和8年5月26日。
- ^ 『官報』第2106号、昭和9年1月12日。
- ^ 『官報』第2124号、昭和9年2月2日。
- ^ 「海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第219号 昭和13年8月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074200
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第491号 昭和15年6月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078200
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第701号 昭和16年9月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081900
参考文献
[編集]- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9