コンテンツにスキップ

風早 (給油艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2024年2月17日 (土) 12:03; Bcxfubot (会話 | 投稿記録) による版 (外部リンクの修正 http:// -> https:// (issuu.com) (Botによる編集))(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
風早
1943年7月27日、横須賀に停泊中の「風早」艦首部分[1]
1943年7月27日、横須賀に停泊中の「風早」艦首部分[1]
基本情報
建造所 播磨造船所[2][3]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 運送艦[4](給油艦[5])
級名 風早型[4]
母港 横須賀[6]
艦歴
計画 昭和16年[5]マル急計画[7]
起工 1941年9月30日[2]
進水 1943年1月20日[2]
竣工 1943年3月31日竣工[2]
最期 1943年10月6日沈没[8]
除籍 1943年12月1日[9]
要目(計画)
基準排水量 18,300英トン[2]
公試排水量 20,000トン[2][注釈 1]
全長 161.10m[2]
水線長 157.25m[2]
垂線間長 153.00m[2] または152.4m[注釈 1]
最大幅 20.10m[2][注釈 1]
深さ 11.56m[2]
吃水 8.83m[2][注釈 1]
ボイラー ロ号艦本式缶2基[2]
主機 石川島式(高低圧)二段減速タービン1基[2]
推進 1軸 x 120rpm[2]
出力 9,500hp[2] または10,000hp[注釈 1]
速力 16.5ノット[2]
燃料 重油[2]
乗員 竣工時定員 194名[10]
兵装 45口径十年式12cm高角砲 単装3門[2]
25mm機銃 3連装2基[2]
レーダー 電探[11]
ソナー 探信儀、水中聴音機[11]
その他 補給物件
重油 10,000トン[2](うち2号重油約2,000トン[7])
軽質油 1,000トン[2]
小艦艇への糧食真水の補給[7]
潜水艦への荷電[7]
テンプレートを表示

風早(かざはや)は[12]日本海軍の運送艦[4]マル急計画において計画[13]播磨造船所で建造された給油艦である[注釈 2]。艦名は伊豆大島北端の風早埼による[14]1943年(昭和18年)3月末に竣工した[8]。 同年10月6日トラック沖合の太平洋アメリカ海軍潜水艦から魚雷攻撃を受け[15]、沈没した[注釈 3]

概要

[編集]

高速給油艦として計画されていた剣埼型給油艦が建造途中に潜水母艦に変更されたため、その代わりとして1941年(昭和16年)度のマル急計画で4隻の艦隊随伴用の大型給油艦が計画された。その第1艦である仮称第304号艦は「風早」と名付けられた。1943年(昭和18年)3月末に竣工後は重油輸送に従事するも[17]10月6日にアメリカ潜水艦と交戦し、沈没した[注釈 4][注釈 5]。竣工から6か月ほどの艦歴であった。

なお同型艦のうち1隻は航空機搭載型に計画変更、特務艦「速吸[20]として竣工した[21]。残り2隻は計画中止となったので、当初の計画通りに竣工したのは「風早」1隻のみである[5]

艦型

[編集]

船体は計画のみに終わった逓信省標準船TL型タンカーをベースにして、艦隊随伴の給油艦として縦曳、横曳の他に斜曳、逆曳による洋上給油のできること、重油以外の補給物件の搭載の要求もあり[7]、以下のような変更がされた。

艦隊随伴給油艦としての特有の設備は、後部マストを3脚として洋上給油のためのデリックを設けた[11]。 更に艦橋の前後にそれぞれ1対のツインポストを設け同じく蛇管の吊り上げ用とした[11]。 また縦曳給油用設備として、左舷寄りに全通の蛇管通路を設け[22]、 甲板作業の便を図るために上甲板にブルワークを設けずハンドレールとしている[23]

船体中央部は基本的に補給用の重油タンクとなるが、最前部両舷を軽質油(ガソリン)タンクとし、その構造は空母のそれと同じにした[11]。 そのタンクの中央側区画にはガソリンポンプ室と補給用真水タンクを設置した[11]。 要求として潜水艦用ディーゼルエンジンの燃料となる2号重油の搭載もあり、中心線のタンクをそれに当て、給油ポンプ1台をその専用とした[11]。 それと同時に潜水艦への荷電もできるようになっており、それ以外に補給関係として小艦艇への糧食と真水の補給ができた[7]

機関は逓信省標準船TL型タンカーに搭載予定だったものをそのまま搭載している。 計画速力は16.5ノットであるが、公試の条件が民間の試験より排水量の重い状態であり、商船としては19ノットに相当するものだった[23]

対空装備は計画の途中で高角砲口径の増大、連装化と強化の要求があったが、12cm単装高角砲を艦首に1門、艦尾に2門設置することで妥協した[24]。 また25mm3連装機銃を艦橋両側に設置した[11]

艦歴

[編集]

1941年(昭和16年)9月30日、播磨造船所で起工[2]。1942年(昭和17年)9月25日に「風早」と命名され[4]、同日に特務艦類別等級別表に風早型の1番艦として記載された[4]。1943年(昭和18年)1月20日進水、3月31日竣工[2]横須賀鎮守府[6]となり連合艦隊付属に編入される[17]

4月7日に横須賀を出港し、パレンバンボルネオ方面とトラック、ラバウル間で重油輸送に従事する[17]。5月7日には駆逐艦凉月」の出迎えを受けてトラックに入港した[25]

6月21日、佐世保を出発してパレンバン、トラック、ラバウル方面の重油輸送任務に従事した[8]。7月27日未明、ニューアイルランド島カビエン北西南緯02度38分 東経149度20分 / 南緯2.633度 東経149.333度 / -2.633; 149.333の地点でアメリカ潜水艦「スキャンプ」の雷撃を受け、魚雷1本が命中して損傷[26]。トラックで応急修理の上、8月5日に貨客船「白山丸」(日本郵船、10,380トン)、護衛の水雷艇」と4805船団を構成して出港[27]。8月12日に横須賀に到着後[27]、播磨造船所に回航されて修理を実施した[8]

修理完了後の9月30日夜、豊後水道を出撃してトラックに向かう[28]。北緯29度線付近まで駆逐艦「春風」の護衛を受けるが[28]、以後単独行動となる。折しもエセックス級航空母艦を基幹とするアメリカ海軍の空母部隊が、ウェーク島に来襲するため中部太平洋に進出してきた[29][注釈 6]。また航空機の誘導や不時着機の救助作業に潜水艦を活用し[31]、攻撃目標の近海に配備する方針をとっていた[32]

第14任務部隊によるウェーク島空襲が実施されようとしていた10月6日未明、北緯10度26分 東経142度29分 / 北緯10.433度 東経142.483度 / 10.433; 142.483の地点で「風早」はアメリカ潜水艦「スティールヘッド」に発見された[33]。2時36分、「スティールヘッド」は魚雷を4本発射し、「風早」に2本が命中して1本は命中したものの不発だった[33]。「スティールヘッド」は「風早」から爆雷による反撃を受けた[注釈 5]。「スティールヘッド」は退避し、再び潜望鏡深度に戻って観測すると、目標から油が流出しているのを確認する[34]。「スティールヘッド」は近くにいたアメリカ潜水艦「ティノサ」に以後の攻撃を託し、戦場から去っていった[34]

「風早」は魚雷が命中したものの自力航行は可能であり、連合艦隊は各部隊に救援を命じる。トラック泊地からは軽巡洋艦「五十鈴」と駆逐艦「海風」、「初風」が出動し、「風早」遭難現場に向かった[35]。 一方、「ティノサ」は昼ごろに戦場に到着し、「風早」に対して魚雷を6本発射[36]。3本が命中し、「風早」は更なる救援を請うた[37]。「ティノサ」は間合いをとった後の18時18分に艦尾発射管から魚雷を4本発射し、2本命中を記録した[38]。さらに間髪入れず艦首発射管から2本発射したものの、これは命中しなかった[38]。いずれにせよ日本側記録で魚雷5本[注釈 5]が命中した「風早」の浸水はますますひどくなり、前部から徐々に沈下[37]。重要書類処分の上、18時30分に沈没した[39]。乗員のうち特務艦長金桝義夫大佐以下154名が「海風」に、98名が「初風」に救助された他、カッター1隻が「五十鈴」に収容された[40]

同年12月1日に除籍された[9]

歴代艦長

[編集]
艤装員長
  • 金桝義夫 大佐:1943年2月1日 - 1943年3月31日[41]
特務艦長
  • 金桝義夫 大佐:1943年3月31日 - 10月10日[41]

同型艦

[編集]

昭和16年度のマル急計画の4隻は、本艦と途中で計画変更となった「速吸」(はやすい、第306号艦)の2隻が竣工した。残りの2隻は建造取り止めとなったが、予定艦名は韓埼(からさき、第305号艦)[II]、稲取(いなとり、第307号艦)だった。1942年改⑤計画で更に7隻計画されたが、全て建造取り止めとなった。予定艦名は雁来(かりこ、第5381号艦)、釣掛(つりかけ、第5382号艦)、雲見(くもみ、第5383号艦)、神須(かみす、第5384号艦)、膠州(こうしゅう、第5385号艦)、青島(せいとう、第5386号艦)、野間(のま、第5387号艦)[注釈 7]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ a b c d e #海軍造船技術概要pp863-864によると公試約20,000トン、垂線間長152.4m、型幅20.1m、公試吃水8.9m、軸馬力10,000馬力。
  2. ^ 『特務艦』行動年表 ◆風早(給油艦)◆[8]
  3. ^ 風早を雷撃したのは、潜水艦スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280) とティノサ (USS Tinosa, SS-283) であった[16]
  4. ^ トラック泊地より軽巡五十鈴(第十四戦隊)と駆逐艦2隻(海風初風)が出動し、救援作業に従事した[18]
  5. ^ a b c
    ○「風早」(七-〇二三〇)[19]
    一、昨0100以後、敵潜水艦六ヲ発見、四周ニ亘リ交戦、被雷計五。
    二、1727缶室被雷、1830沈没。
    三、機密図書処分完了。
    四、1105第三回交戦ノ際、敵潜水艦一ヲ乗切リ爆雷攻撃ス、効果確実。《第二十四駆逐隊(七-〇二四二)「風早」艦長以下十二名ヲ救助ス。他ハ天明ヲ待ツテ救助ス。附近敵潜水艦二隻存在ノ算極メテ大ナリ。飛行機ノ派遣ヲ得度。》(9°-56′N 148°-29′E)
  6. ^ アルフレッド・E・モントゴメリー少将が指揮する第14任務部隊 (Task Force 14) :大型空母3隻(エセックスヨークタウンレキシントン)、軽空母3隻(インディペンデンスカウペンスベローウッド[30]重巡2隻(ニューオーリンズサンフランシスコ)、軽巡4隻(バーミングハムナッシュビルサンタフェモービル)、駆逐艦部隊。
  7. ^ 『日本特設艦船物語』p.376によると改⑤計画艦の7隻は「速吸」と同型。

出典

[編集]
  1. ^ #日本海軍全艦艇史864頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x #昭和造船史第1巻pp.794-795
  3. ^ #昭和17年1月 - 12月達/9月画像34-35、「達二百六十號 昭和十六年及昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻、潜水艦六隻、驅潜艇二隻及特務艦二隻ニ左ノ通命名ス 昭和十七年九月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎(中略)株式會社播磨造船所ニ於テ建造 特務艦 風早(カザハヤ)」
  4. ^ a b c d e #昭和17年7月 - 9月内令3巻/昭和17年9月分(3)画像12、「内令第千七百九十七號 特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年九月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 運送艦、足摺型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | 洲埼型 | 洲埼 || 風早型 | 風早 |」
  5. ^ a b c 『日本海軍特務艦船史』p.23。
  6. ^ a b #昭和18年1月 - 4月内令1巻/昭和18年3月(3)画像6-7、「内令第五百三十八號 (中略) 特務艦 風早 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 横須賀鎮守府在籍 特務艦 風早 右在役特務艦ト定ム 昭和十八年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎」
  7. ^ a b c d e f #海軍造船技術概要p.861
  8. ^ a b c d e 丸、写真日本の軍艦(13) 1990, p. 45.
  9. ^ a b #昭和18年8月 - 12月内令/昭和18年12月(1)画像7-8、「内令第二千五百六十號 (中略) 横須賀鎮守府在籍 特務艦 尻矢 特務艦 風早 右帝國特務艦籍ヨリ除カル 昭和十八年十二月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎」
  10. ^ #昭和18年1月 - 4月内令1巻/昭和18年3月(3)画像47-49、「内令第五百二十六號 海軍定員令中左ノ通改正セラル 昭和十八年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 (中略) 運送艦定員表其ノ十ヲ別表ノ如く定ム(別表一葉添) | 第九十一表ノ六 | 運送艦定員表 其ノ十 | 風早 |(詳細略)|」計 士官11人、特務士官2人、准士官5人、下士官41人、兵135人(備考略)。
  11. ^ a b c d e f g h #海軍造船技術概要p.862
  12. ^ 補助艦艇奮戦記 2016, p. 275a風早(かざはや/給油艦)
  13. ^ 丸、写真日本の軍艦(13) 1990, p. 24給油艦 風早 Oiler:KAZAHAYA,1943.
  14. ^ #聯合艦隊軍艦銘銘伝(普)578頁。
  15. ^ 昭和18.8.15~昭和18.12.31 太平洋戦争経過概要 その6(防衛省防衛研究所)第三段 作戦 18年10月1日~18年10月13日 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120637200  p.11(昭和18年10月6日)〔 6|0140|特務艦風早(20000t 16.5kt TO)ハ呉ヨリ「トラック」ニ向ケ航行中「トラック」ノNW250′ニテ敵S(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|南洋|敵ノ一隻ヲ乗切リ有効ナル攻撃ヲ加ヘシモ前後五本ノ魚雷ヲ蒙リ一八三〇沈没 〕
  16. ^ 戦史叢書62 1973, p. 417.
  17. ^ a b c 補助艦艇奮戦記 2016, p. 275b.
  18. ^ 戦史叢書62 1973, p. 415.
  19. ^ 高松宮日記7巻 1997, p. 18.
  20. ^ 丸、写真日本の軍艦(13) 1990, p. 25速吸
  21. ^ 補助艦艇奮戦記 2016, p. 276速吸(はやすい/給油艦)
  22. ^ #海軍造船技術概要pp.862-863
  23. ^ a b #海軍造船技術概要p.863
  24. ^ #海軍造船技術概要pp.861-862
  25. ^ 遠藤, 201ページ
  26. ^ 「SS-277, USS SCAMP」p.58,61,62,63 、The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  27. ^ a b 『特設運送船白山丸戦時日誌』pp.33,36
  28. ^ a b 『呉防備戦隊戦時日誌』pp.26
  29. ^ 戦史叢書62 1973, p. 411.
  30. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 411–413十月六日のウェーク空襲
  31. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 276–277潜水艦による不時着機搭乗員の救難配備
  32. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 416–417米潜の機動部隊搭乗員の救助と「間宮」の救援
  33. ^ a b 「SS-280, USS STEELHEAD」pp.71,86,89,90
  34. ^ a b 「SS-280, USS STEELHEAD」pp.72
  35. ^ 『第十四戦隊戦時日誌』pp.15
  36. ^ 「SS-283, USS TINOSA, Part1」pp.77
  37. ^ a b 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.24
  38. ^ a b 「SS-283, USS TINOSA, Part1」pp.78,90
  39. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.26
  40. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.25,27,28 、『第十四戦隊戦時日誌』pp.25
  41. ^ a b 『日本海軍史』第9巻、798頁。

参考文献

[編集]
  • 遠藤昭『高角砲と防空艦』原書房、1975年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0386-9
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、2014年。ISBN 978-4-7698-1565-5 
  • 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
  • 世界の艦船 増刊第47集 日本海軍特務艦船史』海人社、1997年3月号増刊
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第七巻 昭和十八年十月一日~昭和十九年十二月三十一日』中央公論社、1997年7月。ISBN 4-12-403397-4 
  • 寺崎隆治ほか『補助艦艇奮戦記 縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情』潮書房光人社、2016年6月。ISBN 978-4-7698-1620-1 
    • (164-287頁)戦史研究家伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争
  • 日本造船学会 編『昭和造船史 第1巻』原書房、1981年。ISBN 4-562-00302-2 
  • 林寛司・戦前船舶研究会「特設艦船原簿」「日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶 第104号』戦前船舶研究会、2004年
  • 福井静夫福井静夫著作集/第十一巻 - 軍艦七十五年回想記 日本特設艦船物語』光人社、2001年。ISBN 4-7698-0998-0 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年。ISBN 4-87565-205-4 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦  小艦艇I 特務艦・潜水母艦 特設潜水母艦 駆潜艇・哨戒艇 掃海艇・輸送艦』 第13巻、光人社、1990年8月。ISBN 4-7698-0463-6 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和17年1月 - 12月 達/9月』。Ref.C12070115400。 
    • 『昭和17年7月 - 9月 内令 3巻/昭和17年9月分(3)』。Ref.C12070165000。 
    • 『昭和18年1月 - 4月内令1巻/昭和18年3月(3)』。Ref.C12070176000。 
    • 『昭和18年1月 - 4月内令1巻/昭和18年3月(4)』。Ref.C12070176100。 
    • 『昭和18年8月 - 12月 内令/昭和18年12月(1)』。Ref.C12070190200。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030018400。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030018500。 
    • 連合艦隊第四艦隊 第四根拠地隊司令部 第二海上護衛隊司令部『自昭和十八年八月一日至昭和十八年八月三十一日 第四根拠地隊司令部 第二海上護衛隊司令部 戦時日誌』(昭和16年12月1日 - 昭和19年4月30日 第4根拠地隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030251000
    • 特設運送船白山丸『自昭和十八年八月一日至昭和十八年八月三十一日 特設運送船白丸戦時日誌』(昭和18年7月1日 - 昭和18年10月31日 特設運送船白山丸戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030671900
    • 呉防備戦隊司令部『自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 呉防備戦隊戦時日誌』(昭和18年6月1日 - 昭和18年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030368500
    • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日 - 昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101300
    • 第十四戦隊司令部『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 第十四戦隊戦時日誌』(昭和18年4月1日 - 昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030052400

関連項目

[編集]