25世紀になり初めてのカブキ・シューメイ式がウェストミンスター寺院で執り行われる。カブキについてその名を知る人は多いと思うが、ニホン文化については失われた記録も多く、その深い意義についてはあまり知られていない。失われた東洋史の専門家として解説したい。
カブキの起源は16世紀にさかのぼる。マエダ・ケージというカブキ・マスターがザ・グレート・カブキという名で、大名や将軍KYワカマツに毒霧を吹きつけ、カブキの名を知らしめた。
しだいにカブキは大衆文化として崇められるようになり、カブキ・マスターを排出する家系を「ソウケ」と呼ぶようになった。これはニホン文化における「ハレ」と「ケ」における「ハレ」であるところの「躁」の家(カーニバル状態)を表す。これが元となり、逆に「鬱」状態を示す者を「ウツケ者」と呼ぶようになった。
さて、カブキ最大のイベントといえばシューメイ式である。カブキ・マスターがその名前を受けつぐ儀式である。この儀式は、20世紀末から21世紀初頭のいずれかに現れた伝説のカブキ・マスターが起源と言われる。そのマスターの名は、一説にエビゾー(シュリンプ・タンク)と言われている。
彼のエピソードを紹介する前に、当時のニホンの状況を説明しよう。記録によると、当時のニホンは国を挙げてイカの巫女信仰が盛んであり、それは会話や文書に用いられる語尾にまで変化をもたらしたと言われる。ことが憲法改正に及び(古文書によると「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄しなイカ」/「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しなイカ。国の交戦権は、これを認めなイカ」とある。一層のニホン語文法の解明が待たれるでゲソ)、これによる微妙なニュアンスの変化から、ケンポーカイシャクという独自の政治システム(詳細は不明)に揺らぎが生じ、アジアを襲った壊滅的な出来事の引き金になったとも言われる。
これに対抗したのがエビを信仰する、カブキ・マスターの一派であった。彼の一門にはエビイチ・ソメノスケ・ソメタローというカブキマンもおり、彼の名は「世の中をエビ一色にする」という意味である。あるいは、エビナ・ジャスティスという武士も有名であり、ナカヤマフェスタというホースに跨りフランスの凱旋門に単騎突撃したことで記録に残っている。この突撃は労働人口という名の騎士によって阻まれたというが、ホースを用いたケイバというスポーツに関してはまだ謎が多く、詳細は不明である。
さて、シュリンプ・タンクが行ったシューメイ式とはどのようなものであったろうか。基本的な構造は、世界の神話や英雄譚をなぞっている。名家に生まれた御曹司ながら、その世界を追放され(これをリエンという)、邪の世界で傷を負う。しかし、そのことにより彼の王家の正当な後継者である印(スティグマ)が顕現し、王国の長として老王の後を継ぐというものである。ニホン語にある「一皮(いちかわ)剥けた」という語はこれを由来とし、エビの脱皮を人間的成長になぞらえたものである。
さて、儀式の内容であるが、リエンされたカブキ・プリンスが西方の汚濁の地にて灰皿に注がれたテキーラという酒を悪魔に飲ませようとしたところ、逆襲に遭うというのが骨子だ。最後には大地真央(センター・オブ・ザ・ワールド)という女神が現れ、彼を救う。彼は女神と結ばれ、カブキの名のもとに神の国を顕現させるのである。
ここで少々説明が必要であろう。灰皿というのは、タバコという当時の乾燥葉燃焼型ドラッグの灰を集める器である。これは神事にも用いられ、オーサカ・シティにはこれを自らの頭部に叩きつける有名な苦行僧がいたと記録に残っている。また、テキーラというのは、「敵ら」(エネミーズ)を意味するサケ(飲料ドラッグ)の一種と考えられる。すなわち、神の器に汝の敵らを戴き、それを飲ませるという宗教的行為そのものなのである。これに対し、悪魔たちは激しい抵抗を示し、激しく暴力を振るう。その一撃が彼の左目を傷つけ、プリンスの目は赤く染まる。これは「邪気眼」と呼ばれる王の力の象徴であり、ギアスというまじないによって人々を従わせられると信じられている。
この行為が、これ以後のカブキのメーン・イベントとして発展を遂げていく。カブキは伝統を守る一方で、新しい要素を貪欲に取り入れていく、破壊と再生(シト再生)の意識が強く、まずシューメイ式の場が西へ西へと移動していったのである。元は西アザブ(地名からアラブ付近と考えられる)であったものが、西ニッポリ、西ノミヤなどに移り変わり、現在は三代続けて儀式が執り行われているウェストミンスターに落ちついている。これにより、西洋古宗教と結びつき、吸い殻と灰皿に代わり聖灰と聖盃、テキーラに代わりワイン(果実を材料とした飲料ドラッグの一種)が用いられるようになっている。
このように、カブキは古い伝統を維持しながらも、時代とともにあたらしい面を取り入れるといった、柔軟で古びない文化であるといえる。これは、失われたニホンという国の文化を想像するにあたっても、大きな手がかりであると考えられよう。今後のニホン研究の一層の発展を願い、ここで筆をおく。