ソフトウェアなら動作確認をしたり、テストを書いたりできるけど、チームとか、体制みたいなものには、そういうものを適用できない。
体制が決まったらこれでOK、ということはなくて、変えてみて、期待通りに動かなかったら都度直していく必要があるのだと思った。
なので、体制を調整している時期があるとして、これで決ま���ました、となって、走り出せばしばらく作業に集中できるか、というと、そうでもなくて、その後の調整に最初と同じくらいの手間がかかりそうな予感がする。
なので、決まった成果物には何の価値もなくて、実際に期待通りの効果が出て、ようやく価値がある。
体制の形、というのは目に見えなくて、だれがどういう部分を気にかける、とか、こういう情報がこういう人の耳に入るようにしよう、という計画である。
計画の価値ってどれくらいあるかというと、筋トレの計画を立てたとして、こなせなかったら意味がないし、実施しても筋肉がつかなかったら意味がない。
もちろん、意味のない計画は役に立たないけど、意味のある計画が必ず役立つかというと、そうでもない。
腕立て伏せを1日8万回やる人はいないはずで、それは役に立たない計画。もしこれが、1日100回やる計画だとしても、それをいつやるの?というときに、全然時間なくてできません、とか、いまアニメ見るほうが興味あるので、やれません、いうこともあるので、意味はあっても役に立たないこともある。
アニメを見ながらプランクするのなら動かなくてもできるので、そのほうが役に立ちそう、変えてみましょう、とか、状況にあった調整の話も引き続き必要。
ということを、最近、体制とか会議体とかをこねくりまわしていて思った。