これを書いているのは、2011年の1月5日です。
いまの時点では、「ホームページ・ビルダー」を使って作られたような「個人サイト」は、もうほとんど死滅してしまっていて、その後隆盛を極めた「個人ブログ」も、すっかり斜陽コンテンツになってしまいました。
5年前くらいのブログ黎明期には、一般の雑誌にも「あなたもブログをつくって、友達作り! お金も稼げるかも!」というような記事がたくさん載っていたのですが、いまでは、「個人ブログ」を薦める声はかなり小さくなり、『mixi』などのソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)や『twitter』が「個人がネット上に発信する機会」の主役となりつつあります。
個人サイトから、個人ブログになって、「更新しやすさ」や「他人とのつながりやすさ」は、格段にアップしましたし、「ネット上で何かを発信するための敷居」も大きく下がりました。それは、とても喜ばしいことだと思うのです。
でも、その一方で、ネット上は、ネット外の世界とシームレスになってしまって、「ネットだからこそできる匿名での内緒話」みたいなのは、許されない時代になってきました。
mixiで「友人だけに公開」にしていたはずの話がネット上に拡散され、「友人限定」だったのに、という話をすると、「ネット上に公開されているものは、友人限定にしていようが何だろうが、書いた本人が責任を取らなければならない」という正論が襲いかかってきます。
ネット上が「アンダーグラウンド」だったのは、ごく初期の数年間くらいで、ブログやtwitterという新しいツールが流行るたびに、「息苦しさを感じるまでの期間」は、どんどん短くなっていきます。
twitterだって、結局のところ、「もともと潜在的なフォロワーを多数抱えていた芸能人・有名人(有名ブロガー含む)のほうが、圧倒的に有利なツールですしね。
無名の人が成りあがるには、誰かに引きたててもらうか、「炎上作戦」をとるしかない。
現在の個人ブログは、大多数の「何を書いても炎上すらしない閑古鳥ブログ」と、ごく一握りの「何を書いても炎上する可能性がある有名ブログ」に二極化しています。
正直、「ブログで自分を宣伝したい人(あるいは、自分の存在価値を証明したい人)」か、「失うものが無い人」以外には、ブログを書き続けることは、「百害あって一利くらいはあるかな……」という感じでしょう。
僕は最近の「息苦しくなってしまった個人ブログ」に接しながら、こんなことを考えているのです。
なんでもっとみんな「自分のこと」を書かないのだろう?
僕はよく本や映画の感想を書いているのですが、それに対しても、必ずしも好意的なメッセージばかりが寄せられるわけではありません。
いや、「自分はそう思わない」っていうのは構いませんよ、それはあくまでも「個人個人の見解の相違」だから。
でも、「そんな感想を抱くお前はおかしい、間違っている」って言う人がけっこういるのは悲しいことです。
いやまあ、「他人の感想をおかしいと思う」のも自由だと言われたらその通りなんだけど、そういうのは、その人が胸にしまっておけば良いことじゃないですか。
僕が最近の個人ブログで「つまらない」と思うのは、みんな「公的な立場を意識しすぎている」というか、「評論家としてふるまおうとしすぎている」ことなんですよ。
自分で考えたこと、感じたことを書くのではなく、「世間」と戦おうとしすぎているのではないかなあ。
あるいは、自分を大きく見せようとしすぎて、借り物の言葉ばかりを並べてしまっているようにも思われます。
ごく一部の「専門家のブログ」を除いて、多くの人は、個人のブログに「この人は、どう感じたのか?」ということしか求めていないはずです。
そういう「個人的な感想」の集積が、ある一つの作品に対する「評価」になるし、それは、ひとりの有名映画評論家のコメントよりも、ずっと「普遍的な意味」を持つのではないかと僕は考えています。
でも、実際に人というのは、自分が「世論という大きなものの、ひとつのパーツになる」ことを受け入れられない。
だから、奇をてらったことを書いてみたり、他人の感想を否定してみたりしてしまう。
もちろん、「ネットでは書くべきではないこと」って、たくさんあります。
モラルとしても、処世術としても。
しかしながら、僕たちは、「自分のこと」しか書けないんですよ、基本的には。
そこで、自分=世間だと思ってしまう、あるいは、思わせようとしてしまうことが、ブログをどんどん、僕たちの手から遠いところに追いやってしまっているのです。
でもまあ、実際に↑からランダムに「個人ブログ」を観てみると、なかなか「これは面白い」っていうものは少ないなあ、と感じるのも事実です。
これを書きながら、ファミコンのゲームが少ない時代には、『ロードランナー』とか『忍者ハットリくん』もミリオンセラーになったけど、ファミコン円熟期だったらあんなには売れなかっただろうなあ、とかも考えました。
みんなの時間が有限である以上、より洗練されたものに人が流れていくのは、しかたがない面はあるのでしょう。
それでも、僕自身は、今後、個人ブログが生き残る道があるとすれば、それはまさに「自分のことを書く」しかないと思うのです。
「人気ブログを書くには?」
「まず有名人になって、それからブログを書けばいい」
これって、一昔前は「ネタ」として扱われていた話なのですが、いまは「単なる事実」でしかありません。
いつの間にか、「(無名の)個人ブログ冬の時代」が到来していて、春が訪れる気配はないのです。
「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)
汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗、冷汗」
と言って笑っただけでした。
けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。
僕はある時期から、「みんなが」「社会が」「常識的には」「日本人は」「男は」「女は」などと書くのを極力やめるようにしています。
誰も、僕のブログに「社会常識」を教わろうなんて思っていないはずだから。
そして、僕は、僕自身として、ここにいることに心地よさを感じているから。
それを意識するようになってから、そして、コメントに返信するのをやめてから(本当はコメント欄そのものが不要だと思うことも多いのですが、先日の『ノルウェイの森』のエントリのコメント欄のように、みんなが好きなことを書いて盛り上げてくれる場合もあるので、とりあえず存置しています)、だいぶ書くのがラクになりました。
なんのかんの言っても、僕はブログが大好きです。
10年やってもこの程度ですが、それでも、書くことは愉しいし、反応を貰えると嬉しい。
たぶん、「自分のこと」を書いているから、なのでしょうね。