「画像表象とリアリズム」第4回。
前回、番外編で扱ったものに続き、イジー・ベノヴスキー(Jiri Benovsky)の論文です。
本論文(Benovsky 2012)はPhilPaperの「Photography」カテゴリで、ウォルトン「透明な画像」(1984)に次ぐダウンロード数を記録している。なぜかは不明……。
静止したイメージである写真に、運動、時間、変化を表象することはできるのか。時空論をも巻き込んで、「写真による時間の表象」を説明しようとする、野心的な一本です。
話をゴリゴリに単純化していくところや、やや突飛すぎる論述はそれ自体として批判されるべきだが、近年の分析系写真論においては、それなりに面白いプレイヤーだと思っている。
ちなみに、掲載されている写真は全てベノヴスキーによるものだそうです。
いくぜ!
(*節の名前は僕が随時つけたものです)
1.描写⇔表象
1.1写真は時間を表象することができるのか
- 写真のような静止した(static)イメージは、時間的延長(temporal extension)=持続(duration)を表象/描写することができるのか。できるとすれば、どのように表象/描写するのか。
- 写真は物語的内容を持つことができる。優れた写真家は、写真によって「物語る」ことができる。
- 伝統的な理解(Harris 1744、Lessing 1969)において、絵画や写真などの静止したイメージには、特定の瞬間しか表象できない。それ自体が静止しているのだから、時間的幅を持った出来事を表象することはできない。
- Le Poidevin 1997はこの立場を支持しつつ、絵画や写真が表象するのは「知覚可能な、最小の間隔(interval)」であると主張する*1。
1.2.「表象する⇔描写する」
- ここでまずCurrie 1995に倣い、「写真的表象(photographic representation)」と、「写真的描写(photographic depiction)」を区別しなければならない。
- 「写真の直接的知覚から、視覚的類似によって、観者が即座に知覚する対象A」という意味で、写真pは対象Aを描写する。
- ただし、写真はより広範(larger)で豊富な(richer)内容を表象することもできる。
- 写真が何かを表象するのは、写真の「物語り能力(narrative powers)」による。
- 視覚的に知覚可能な内容を描写するだけでなく、観者の想像と推論を促すような物語を表象する。これなら、写真が持続を表象することはできそう。
- Walton 2008も言うように、「静止した写真は、それが描写する以上の出来事を表象することができる」
- まず「物語ることを通して、写真がなにかを表象する」ということの内実を見ていく。
2.映画における物語り
- Carroll 2008曰く「映画的(cinematographic)語りと、言語的語りは異なる」。「映画の言語(the language of cinema)」というのはミスリーディングなメタファーに過ぎない。
- 一方で、作者は、映画を通して何かを物語ることもできる。ベノヴスキー「写真のような静止したイメージでも、物語ることはできると思う」。
- 例えば先程の写真は、左右で物語る内容が異なる。左は〈愛し合うカップル〉が物語の中心であるのに対し、右は〈結婚式である〉ことが物語の中心になっている。いかにして、この違いが生じるか?
- 映画の例を参照。キャロルは映画製作における「注意管理(attention management)」を指摘している。作者は、観者の注意を誘導することで、特定の知覚を強いる。この種の工夫として、キャロルは以下の手法を挙げている。
- 見られる順番を決める
- 見られる時間の長さを決める
- 見られる対象の大きさを決める
- 写真ではどうだろうか。一見すると3つ目以外の手法は、写真と関わりがなさそう。
- 写真も、映画のように物語ることができるのか?
- ベノヴスキー「写真もまた、観者の知覚を誘導することで、物語ることができる」。写真にはどのような「注意管理」の手法があるのか、以下で検討。
3.写真における物語り
3.1.写真家による「注意管理」
- 優れた写真家は、観者がまず写真のどの部分に注意を向け、次にどこへ向けるのかをコントロールできる。➡写真の部分部分において知覚される順番を管理できる!
- 例えば、以下のような工夫ができる。
- 被写界深度の調整
- 主題となるものの露光の調整(背景との比較において)
- 構図の選択(三分割法など)
- 主題となるもののサイズ/スケール/倍率の調整
- 作者はこれらの工夫によって、自らの写真が秩序だった順番で知覚されるよう、観者を誘導できる。また、写真内で知覚されるものに重要度の差をつけることもできる。
3.2.被写界深度、知覚の自然的性質、構図
- [例]てんとう虫の写真*2。
- 被写界深度:てんとう虫と1本の葉脈にピントがあっており、その前後にぼかしを用いている。ピントの合っている葉脈がシャープな道のようになっていて、〈てんとう虫が道を歩く〉という内容を物語っている。
- 観者はまずてんとう虫に注意を向け、次にピントの合っている道に注意し、再度てんとう虫を注意深く見る。この知覚は時間的延長を持ち、かつ、作者によって秩序付けられている。➡写真もまた、観者の知覚を管理することで、物語ることができる!
- もし写真全体にピントがあっていたら、物語内容は全く別のものとなりうる。(〈てんとう虫が道を歩く〉という内容は伝わらない)
- ここでは、我々の知覚における自然的(natural)性質(ぼけているものより、ピントの合っているものから多くの情報を得る)が利用されている。写真家は、これによって「こっちを見ろ!」「あっちを見ろ!」といった誘導ができる。
- 観者は、知覚の自然的性質によって、受動的にそう知覚せざるをえない(選択の余地がない)。
- 構図:てんとう虫は、三分割法に則って配置されている。
- てんとう虫を中心に配置すると、葉脈のピントが強調されないほか、右側に無意味な空間が生まれて、物語内容が変わってしまう。
3.3.物語り機能、露光、サイズ
- こうして「ダイナミックに知覚される静止した画像」ができる。
- これによって、写真は「物語り機能(narrative function)」を持つだけでなく、それが与える知覚は、我々が普段している通常の知覚に近づく。静止しているものを見る際、視線は固定されているが、そうでない普段の知覚はもっとダイナミック=動的。
- 上に挙げたような写真は、観者に視線の動きを促す。よって、被写界深度や構図を工夫している写真は、そうでない写真よりも、普段の知覚に近い知覚を与えてくれる。
- 露光と主題のサイズの調整も重要。なぜなら観者は知覚の自然的性質によって、(ピントの合っているものに加え、)明るく、大きいものに注意を向けるから。
- サイズ:極端な例として「てんとう虫の拡大写真」を見る場合、観者はまずもっててんとう虫を見て、その後に背景を見る、というのは自明。最初に見るものがてんとう虫でない、というのは難しい。
- 露光:ピントの合っているところに注意を向けられやすいように、明るいものは目立つ。オーバー気味の部分が主題となる対象以上に目立ってしまう場合も。物語るには、適正露出が肝心。
3.4.第3節まとめ
- 写真は「物語り機能」を持つことができる。
- 写真による物語りは、言語的語りとは異なり、注意管理によってなされる。テクニックによって観者の見方をコントロールし、誘導する。
- そのようなテクニックによって、動的で逐次的、時間的延長を持った知覚がもたらされる。
- これは人間の知覚における自然的性質を利用している。このような自然的性質は生来のものであり、後天的に学習されたものではない。
4.変化の描写と「延続主義」
4.1.「指示」
- Currie 1995による「描写する」「表象する」の区別に加え、ここから「指示する(refer to)」というのを付け加えたい。写真はそれが描写したり表象するものを、指示する。
- 「描写する(depict)」との違い:描写するのは、対象の可視的な部分(見えている側の正面)のみ。指示するのは、対象の全体(見えていない側を含む)。
- 「表象する(represent)」との違い:〈てんとう虫が歩いている〉という事実を指示するわけではない。〈てんとう虫〉を指示するのは、画像的直示(pictorial ostension)である。
- ➡画像は、「描写されるもの」より多くのものを指示するが、「表象されるもの」ほど多くは指示しない。
4.2.「変化」を描写/表象/指示する
- さて、写真には時間的延長を描写/表象/指示できるのか。
- 時間的延長を描写/表象/指示するには、なにかしらの変化(change)を描写/表象/指示しなければならない。
- これは写真に限られるものではない。自然科学においても、時間の測定とはすなわち変化の測定である。
- 問うべきなのは、「写真には変化や運動をを描写/表象/指示できるのか」ということ。できるとすればどのように。以下で見るように、写真は変化を「表象する」ことはできそうだが、「描写する」ことはできなさそうなのが、ここでのポイント。「描写」の仕方にはいくつか候補がある。
4.3.候補①「時間によって時間を描写する」?
- Le Poidevin 2007「映画は時間によって時間を表象する」。映画はそれ自体が変化し運動するので、変化によって変化を、運動によって運動を描写することができる。写真にはこの仕方で変化を「描写」することはできない。
- Walton 2008も、写真は通時的変化によって出来事を描写するわけではない、と考えている。
- もちろん、写真のプリントは通時的に変化する(経年劣化によって色あせる、など)。しかし、これは写真の描写とは関係ない。
4.4.候補②「逐次的な経験をもたらすことで時間を描写する」?
- すでに見た通り、写真の知覚は動的で逐次的なもの。まずはこっちを見て、次にあっちを見る。
- これは映画とのアナロジーにおいて考えられるのではないか。映画も、(もともと)静止したフィルムを、まずはこれ、次はあれ、という順で見ることによって運動を見ている?
- しかし、映画のコマ送りがそれ自体通時的なものであるのに対し、写真は空間的に順々に見ているだけ。両者の経験はやはり異なると考えるべき。
- ここでも写真は物語り機能によって変化を「表象」しているだけであり、「描写」しているわけではない。観者は変化を視覚的に直接知覚できるわけではない。
- Lessing 1969は「写真は時間芸術ではない」と言っているが、少なくとも変化や運動や持続を「表象」することはできる。「描写」は無理そう。
4.5.候補③「前後の想像を喚起して時間を描写する」?
- 次のような写真を見る際、我々は「運動の写真」だと思うのではないか。
- だが、この例もダメ。Walton 2008も言うように、写真は観者の想像力を喚起する。観者は前後の場面を想像することで運動を想像しているに過ぎない。ここでも、写真は変化を「表象」しているが、「描写」しているわけではない。
4.6.候補④「シャッタースピードによって時間を描写する」
- しかし、次のような写真を見れば、写真に関して忘れられがちな事実を思い出す。
- あらゆる写真は、時間的幅を持った出来事の記録である。なぜなら、シャッターが開いている間の光を記録しているから。
- シャッタースピード:スキーヤーの写真-1/4000秒、てんとう虫の写真-1/100秒、電車と男の写真-2秒。それぞれ、幅を持つという点では変わらない。
- もっとも、電車と男の写真以外は、シャッタースピードが極めて遅いか、被写体が遅いため、運動はほとんど知覚されない。
4.7.「延続主義」の「時空ワーム」
- 「写真はこのような仕方(電車と男の写真)によって変化を描写するのだ!」と結論づけてしまう前に、形而上学的な回り道をしてみたい。そもそも変化の本質とはなにか。
- 先程の写真は、「延続主義」的な存在論を思わせる。
- 「延続主義(Perdurantism)」:物質的対象(人体など)は、空間的に延長しているだけでなく、(文字通り)時間的にも延長している。対象は時間的部分を持つ。⇔「耐続主義(Endurantism)」:対象は、通時的に変化しながら存在している。*3
- 電車と男の写真は、時点t1(座っている)からt2(立ちあがろうとする)を経てt3(立っている)に至る、「時空ワーム(space–time worm)」としての男を捉えている。
- 延続主義の検討や擁護は本稿の関心ではない、らしい。とりあえず、延続主義は写真の描写と相性がよさそう。
- 男が生まれてから死ぬまでの時間のうち、切り取られた2秒間分の男を、写真が描写していると言えるのではないか。写真は〈t1-t3間における男の時間的部分〉を描写しており、観者はその痕跡(traces)をみる。
- しかし、時間的部分を描写できるというので、「写真は変化や運動を描写できる」と言えるだろうか。結局のところイメージは静止しており変化しない。
- これだけでは、「写真は変化や運動を描写できる」とは言い難いので、もう少し延続主義の時間概念を見ていく。
4.8.延続主義への反論 「変化を説明できない」
- 延続主義へのよくある反論:延続主義では、真の変化を説明できない。
- 延続主義において、宇宙は静止している*4。過去現在未来を含むあらゆる対象は、四次元の時空において、それぞれの然るべき場所を占めている。これは絶対に変化しない。
- 写真の男が「時空ワーム」なのであれば、男は決して変化しない、ということなのでは?
- Simons 2000「四次元主義は変化を説明しているのではなく、変化の消去(elimination)に過ぎない」「対象が通時的に変化しながらも存続することを説明してほしいのに、四次元主義は別の対象(時間的部分や時空ワーム)を持ち出している」
4.9.そもそも「変化」とはなにか
- Benovsky 2006でも応答した*5が、改めてこの種の反論の問題点を確認する。
- そもそも、本質的な変化(intrinsic change)とはなにか?
- Thomson 1983「ある対象が変化するのは、前まで持っていた性質を、後で欠いている場合、かつそのときに限る」、Brogaard 2000「変化が起こるのは、単一の対象が、両立不可能な二つの状態(states)を異なる時点で持つ場合」。
- どちらもバートランド・ラッセルによる古典的な理解「変化とは、時点tにおける対象についての命題と、別の時点t'における対象についての命題の間の、真偽に関する違いである」に倣っている。要は、「変化とは、異なる時点で異なる性質を持つこと」。
- 変化をこのように定義するのであれば、延続主義は変化を説明していることになる。時点t1における男は、時点t3における男が持たない性質(座っている)を持つ。
- よって、延続主義の立場を採っても、対象は変化する。
- 反論者はさらにねばって「それは(例えば右手と左手が)空間的に異なるようなものに過ぎず、変化とは言えない」と言うかもしれない。しかし、延続主義は「時間的部分が異なるのは確かに空間的に異なるようなものだが、先程の定義からすれば、やはり変化にほかならない」と言える。*6
- よって、先程の電車と男の写真は、(やはり)変化を写した2秒間の時空ワームであると言える。この写真を見れば、男の変化が見れる。よって、この種の写真は変化や時間的延長を描写することができる。
5.簡単な補足および方法論的な是非について
5.1.シャッタースピードについて、補足
- このような仕方で変化を描写する際、同時に写真は(例えば)〈男の時空ワーム全体〉を指示している。
- もちろん、〈n秒間の時空ワーム〉のn秒は、撮影時の露光時間と対応している。
- 「遅いシャッタースピードで撮影された写真であれば、時間的延長を描写できる」と言っていいだろうか?
- しかし、反例もある。上に挙げたマッターホルンは、遅いシャッタースピードで撮影されているが、運動を描写しているわけではない*7。
- というのも、延続や時間的延長が描写されるのは、変化が描写される場合に限られるから。1.5秒間のマッターホルンには、そもそも観察可能な変化(observable change)がない。
- 対象の観測可能な変化は、延続の描写における必要条件。
5.2.わざわざ形而上学的な議論を持ち出す必要/意義があるのか
- 序盤で見たとおり、通常の知覚における延続の知覚も、変化を経験することに基づいている。
- 美的主張(写真が変化を描写することによって延続を描写する)は、認識論的主張(変化の知覚を通した延続の知覚)および形而上学的主張(延続主義の時空観)とどのように結びついているのか。「写真が延続を描写する(=美的主張)」と言うためには、延続主義の存在論を受け入れなければならないのか。
- Le Poidevin 2007は逆に、「写真は瞬間(instants)を描写できるのか」を論じるために、瞬間の本性を検討している。Gombrich 1964「瞬間なんてものは(形而上学的に)存在しないので、写真には瞬間を描写することはできない」。Le Poidevin 2007「まぁ、心理学的な瞬間(psychologically instantaneous)は描写できるよね」➡美的主張をするために、形而上学的問題を回避している。
- とはいえ、「イメージが表象するのは、知覚的な最小部分(perceptually minimum parts)である」と言うとき、Le Poidevin 2007は形而上学的な問題に踏み込んでいるようにも思われる。つまるところ、「知覚的な最小部分」とは(瞬間でないとすれば)なんなのか。
- よって、写真がある種の存在者Eを描写するとき、Eの本性について形而上学的に問うことは、方法論として正しい。
- Eについての説明は、虚構主義、消去主義、あるいは描写される対象の実在論などがありうるが、ともあれなにかしらの説明は必要だろう。
- すでに見たとおり、ベノヴスキーは延続主義による説明を擁護する。①物質的対象は、異なる時点ごとに別々の時間的部分を持ち、通時的に存続する。②過去、現在、未来が存在論的に等価であるという永久主義(宇宙は静止している)。
- 「延続主義」別の立場:Brogaard 2000曰く、延続主義は「唯一の現在が存在する」という主張と両立する。しかし、これを受け入れると、時空ワームは「存在する部分=現在」と「存在しない部分=過去、未来」を持つことになり、面倒な問題に直面する。
- よって、永久主義的な延続主義による説明を採用するのが、無難に思われる。
- 最後に、異なる領域の哲学同士を結びつけて論じるのも悪くないよ、と言って〆る。
✂ 感想&コメント
予想通りイロモノ論文だったが、それなりにいろいろ考えさせられた。
以下、漫然と思いついたことのノートです。
■物語と内容について
序盤、写真が映画のように「注意管理」を行うことで「物語る」、という議論���関しては、もう少し踏み込んでいろいろ論じることができた気がする。
先日、藍白さん(@Aizilo)が紹介されていた「物語的画像」周辺の話とか。
映画の「注意管理」もそうだけど、「物語ること」一般に関しては、ジュネットの物語論における「時間」や「叙法」でカバーできそう。「写真のナラトロジー」、って面白そうじゃないですか?
この辺については、引用されているノエル・キャロルのモノグラフ『The Philosophy of Motion Pictures』(2008)が、もうすぐ翻訳出版されそうとのことで、映画論を中心に盛り上がりそうだ。分析美学、加速しがち。
そういえば、キャロルのThe Philosophy of Motion Picturesの翻訳が来年春くらいに出るらしいよ。いま翻訳がんばってるところだそうな。
— MORI Norihide / 森 功次 (@conchucame) December 5, 2018
2章のMedium specificityのところとか勉強になりそう。
https://t.co/q4cD4yzpTI
■「表象する⇔描写する」?
これはベノヴスキーに対するものというより、引用されているカリーに対するものだが、「直接的に知覚されるものとして、描写する(depict)」「物語ることによって、表象する(represent)」といった用語法は、それでいいんだろうか。とりわけ、よく使われる「表象」の外延はもっと広いように思われる。「表象する」ことの内実についても、「観者が生来持っている知覚の本性を利用し、注意管理によって特定の物語を知覚するよう強制する」みたいな捉え方で、いくらなんでも噛みつきポイントが多すぎるだろと思ってしまう。
おそらく、この辺をすっきりさせるには、描写内容に関するオーソドックスな議論に倣ったほうがいい。
それから、「指示する(refer to)」という新しい区別を持ち出す意義がよく分からなかった。そこまで活用できている感じもしない。要は「肉づき内容」? 志向的対象?
■これは認識論の話なの?
人のことは言えないが、存在論の問題と認識論の問題がごちゃまぜで、今なんの話をしているのかわからなくなる。
何度も知覚の話を持ち出しているあたり、おそらくベノヴスキーは表象も描写も指示も、「観者にとって」という留保付きでの認識論的問題で捉えているのだろう。だとすれば、問うべきなのは「写真は時間的延長を表象できるか」ではなく、「それを通して、我々観者が時間的延長を見出すような写真はありうるか」ではないか。だとしても、「遅いシャッタースピード」かつ「運動を記録している」ような(限られた)写真であれば「時間を表象できる」というのは、オチとしてやや手狭な印象を受ける。
かつ、焦点が認識論的問題なのであれば、四次元主義のような形而上学を援用するのは相性が悪そう。例えば、「"静止した"対象を遅いシャッタースピードで捉えた写真」は、ベノヴスキーによれば「観察可能な運動が記録されていない➡運動を知覚できない➡時間的延続を描写した写真ではない」ということになるそうだが、これは(存在論的に)おかしい。四次元主義というのはそもそも"静止した"対象を動的なプロセス(時間的部分を持つ)に還元しようとするものであるはずだから、(観察可能かどうかを問わず)原理的にあらゆるものはあらゆる瞬間に変化しているのでは? よって四次元主義に立つなら、「あらゆる写真は時間的幅の記録である」と言うほうが自然に思われる。
また、認識論で行くなら、「知覚された時間的延長は、現実における時間的延長とイコールなのか?」という問題もある。この辺はウォルトンの「透明性」に関する議論が使えそうだけど……。
■時空論を援用して、うまくいくのか?
よしんば四次元主義+永久主義が正しかったとしよう。宇宙は四次元の時空であり、万物が固定されている、と*8。
だとしても、写真がそのような時空ワームから時間的部分を切り取り、記録できるというのは一体どういうことなのかが分からない。これって、「写真は時間を表象できるのか」という、表象機能の問題をひたすら棚上げにしているだけなのでは。
表象機能の問題に対し、宇宙における実在の構造にまで踏み込まなきゃいけないのは、やはり風呂敷広げすぎな感がある。第4節だけ長すぎでしょ。もちろん、ネタとしては面白いんだが。
「映画は運動を表象できて、写真には運動を表象できない」という直観を修正してまで受け入れるべき主張とは思えない。
■「写真による時間の表象」、個人的にどう思うか
ベノヴスキーが出している候補①〜②でおおむね話は終わっていて、「写真は映画みたいに通時的な変化がない」ので、存在論的にはもれなく「時間を表象しない」。ただし候補③のように、想像によって補われることで認識論的にはもれなく「時間を"表象"しうる」よね、と。あとは、ウォルトンのごっこ遊び理論を持ってくるなり、そういった経験をもたらす知覚の内実について考えるのが良いかと思う。
長時間露光の写真だけが特別というわけでもない。
そういえば、iPhoneのLive Photosって「写真による時間の表象」*9だよね、っていうのでぼちぼちドロンします。
*1:おそらく、完全に微分された刹那の瞬間は知覚不可能だという議論を前提としている。
*2:虫が嫌いというごく個人的な理由から割愛しました。だいたいこんな感じの写真です。
*3:ここで導入されているのは、四次元主義vs三次元主義の話。ベノヴスキーは四次元主義の立場から写真における時間の記録を説明しようとしている。前提となっている時間論については、前に書いたものがあるので、そちらを参照。
*4:「延続主義」には様々なバリエーションがあるが、本稿でベノヴスキーが想定しているのは「四次元主義+永久主義」というありがちな組み合わせ。いわゆる「時空ワーム説」。
*5:「この種の反論は、延続主義だけでなく耐続主義にも当てはまるので、延続主義への直接的な反論にはならない」という応答だそうだが、詳細は不明。
*6:ここで、道の移動におけるアナロジーが長々と持ち出されているが、説明としては十分なように思われるので割愛。
*7:おそらく「時点t1のマッターホルンと、1.5秒後の時点t2のマッターホルンとでは、性質の変化は知覚されない」というのを想定している。
*8:よしんば、というか、個人的にはこういった宇宙観を支持しているんだけども。
*9:もっともこの場合は「写真」の外縁が問題になってくる。また別の機会に。