ヒコロヒーの妄想小説「応えられない彼の好意に、自分の都合で甘えて、寄りかかって、時に突き放して」
注目のピン芸人ヒコロヒーさんのコラム、スピンオフ! かがみよかがみに寄せられるエッセイのなかから、ヒコロヒーさんがインスピレーションを受けたテーマを「お題」に、妄想小説をお届けします。今回のお題は「応えられない好意」。彼の好意はいやというほどに自覚していて、それでいて自分の気持ちが落ち込んで誰かに優しくして欲しいときは、ひたすらに全身で甘えてしまう。そんな彼と恋人とを、いつも比べてしまう私の悪癖は、誰がどう裁いてくれるのだろう。
●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「応えられない好意」
「どうでもいい人だったら俺こんなとこ来ないからな」
さらりとした前髪をすっとかきあげ、身体ごとこちらを向けてから大野がそう言うので、思わず笑ってしまった。
「今のって、ドヤ顔?」
「いやそんなんじゃないけど」
そうして大野は少し笑ってからジョッキに手をかけて三杯目のビールを何口か飲んだ。小さな居酒屋のカウンターには私と大野の他に、40代くらいの男性が端に一人いるのみで、店内には薄い音でどこかで聞いた事があるようなないような、いつの年代のものかもよくわからない邦楽がずっとかかっていた。ん、と言って大野は自分のほうに置かれた刺身の盛り合わせ皿を私の方へと寄せてくれ、その腕には、あまり見たことのないデザインのディーゼルの腕時計がぶらさがっていた。
「それ、文字盤が透けて見えるんだね」
「あ、これ、なんかカジュアルすぎなくて良いんだよね。人とかぶらないし、あと絶妙に子どもっぽくならないし。浦田もその時計いいじゃん」
そう言われて意識を自分の左腕に向けると、引っかかっているのは細い革ベルトの安価なものだった。そうかな、と、言いながら、久しぶりにまじまじと見つめるとガラスに一本の短い傷がすっと斜めに入っていることに気がついて、あ、と、思った。
顔色ひとつ変えずに言うけれど、小さくて硬い噓だと私は見抜いていた
「俺も彼女つくろうかな」
かき揚げどんぶりを平気な顔で序盤に頼んだ大野は、先端がやたらに細くなっている箸を上手に使いながら白飯の上に乗っかっているかき揚げをさくりさくりと順調に割りながら言った。
真横で、視線をどんぶりに落としている彼の鼻筋はすうっと高く、真っ黒なさらりとした髪を鬱陶しそうに何度も耳にかけながら、そしてその度あらわになる左耳のピアスは薄暗い間接照明ばかりの店内できらきらと反射している。彼はピアスの反射にも私の視線にも全く気づく気配のないまま、懸命にかき揚げを割っていた。
「いい子いないの?」
「まあいないことないけど」
顔色ひとつ変えずに大野ははっきりとそう言ったのに、どうしてこうもそれは小さくて硬い嘘だということがありありと伝わってくるのだろうか。彼の一挙手一投足は、全てが私の気をひこうとしていることだということくらい、きっと、私じゃなくてもあからさまに分かるのに、彼はまるで何も知られていないというような顔で、全て隠し通せているというような佇まいで、淡々とそう述べる。そしてそれは、とても、かわいらしくて、不憫にも思えることだった。
大野はいつからか、ずいぶん昔から、ずっと、私のことが、なぜか、とても、好きだった。そして、これが私のとんでもない勘違いじゃなければ、今もなお、相変わらず、なぜか、とても、好きなように見える。それは時々、申し訳ないと思うほどだった。
私は彼の好意をいやというほどに自覚していて、それでいて応えることは避け、自分の気分が落ち込み誰かに優しくしてほしい時、その誰かの枠組みにいつも大野がすとんと入り込むから、ただひたすらその時間に全身で甘えている。そしてそれを彼も、そんなはしたない私の行いをむやみに理解してしまっている。応えられない大野の好意に、自分の都合で甘えて、寄りかかって、時に突き放して、それでもまた、変わらずそこにあるこの無垢な好意に、優しくしてもらいに来てしまっている。
「そんな喧嘩ばっかする彼氏、何がいいの」
「わかんない」
「別れたら?」
「うん」
「あー、これまた別れないな」
大野はわざとらしく意地悪げな笑みを作ってそう言ってから、たばこに火をつけた。
「嫌いになんないの?彼氏のこと」
「嫌いだよ」
「嘘つけ」
「なんで」
「変だよ」
「なにが」
「お前、全然大事にされてないと思うよ」
「うん、そうだね」
「ほんとに。普通、彼女が辛い時とかしんどい時に突き放すようなことしないよ。めんどくさいけどそばにいてやるだろ、辛い時期って分かってんだったら。男としてのセンスがねえよ。例えば、彼女が生理中だったら男は優しくしてやるじゃん、つらいんだから、こっちにわかんないつらさ経験してんだから、クソみたいな八つ当たりされたってムカつくけど耐えれるじゃん、生理中なんだし仕方ねえか、ってなるじゃん。なんでそいつは生理どころかもっと辛いこと重なってる余裕のないお前にそんな仕打ちするんだよ。辛い時期で余裕ねえんだろうなって普通思うよ。なんでそんなことすんの」
「しらない」
「自分のことしかマジで考えてないんじゃん。それ20代後半の男がやることじゃないよ」
「いやさ、でも私も悪かったんだよ。つらいこと重なっていっぱいいっぱいで彼に気を使えてなかったし、冷静に話し合う余裕もなくて」
「関係ない。お前は悪くない。お前そういうとこあんだよ。気なんか使わなくていい。お前は今生理なんだから仕方ない」
「生理じゃないんだけど」
「そんくらい、それ以上につらい思いをしてるからこういう状態になってるってことをアドバンテージに入れるのが男の普通のセンス。そのことをそいつもちゃんと知ってたんだからなおさら。お前はマジで全然大事にされてない」
「何回も言わないでよ」
「貧乏くじすぎ」
「やめてよ」
「俺だったら」
「もういい」
大野を好きになれたら。好きになろうとしたことは幾度もあった
気がつけば目の前に半分に取り分けられた、かき揚げが置かれてあった。大野は優しい。いつもこうして大きいほうを私にくれる。でも、私の恋人は、私にどのくらい食べるかを聞いてからいつも取り分けてくれていた。
大野を好きになろうとしたことは幾度もあった。今の恋人とうまくいかない時も、前の恋人とうまくいかない時も。大野みたいな人を、大野を、好きになれたら、どれほど愛だの恋だのというものはシンプルで快くて簡単で円滑だろうかと考えては試みて、大野をむやみに期待させるだけで終わっていた。佐知子ちゃんはいつも大野と付き合ってみたほうが良いと言うし、由美さんは何度も大野と飲んでいる場に私を誘いだす。そういえば橋本は少し怒っていて、大野はかっこいいしモテないことないんだからマリちゃんが思わせぶりな態度をとらなければ良い彼女ができるはずだと言われたこともあった。
横にいる大野を好きになりたいと思うのは、傲慢だろうか。恋人とうまくいかない時だけ大野の気持ちを利用する私を、なぜこうも優しく扱ってくれるのだろうか。そしてそんな大野と恋人とを、いつも比べてしまう私の悪癖は、誰がどう裁いてくれるのだろうか。
「ごめん、言いすぎた」
「ううん」
「泣くなよ」
「泣いてない」
「ほら、拭いて」
そう言って大野は自分のおしぼりで私の顔を拭いてくれる。大野は優しい。でもね、大野、そのおしぼりは、顔を拭くものじゃないんだよ。私の恋人は、私が泣いてしまったら、店員さんにティッシュをもらっていた、そんなことを、また、ふと、思い出してしまった。
「なんで笑ってんの」
「ううん、なんでもない」
「女って情緒不安定な生き物すぎるだろ」
大野、そういう物の言い方は、気に入らないと思われるよ、大野。
「大野、そういう物の言い方は、気に入らないと思われるよ」
「えっ?何が」
「女って、とか、ちょっと下げる発言」
「あっそうなの、ごめん。そんなつもりじゃなくて。嫌な気分にさせたならごめんな」
そう言って大野は、俺これ食っていいと私に尋ねて私が答える前に揚げなすをひとつ、やっぱり上手な箸使いで綺麗に掴み取った。
はた、と、いう、音がした。大野は私の不満など大したことないことかのように、まるで足元に落ちてあるゴミをさっと拾ってゴミ箱に入れるかのように軽やかに処理をして、そして私の些細な不満、それは本当に糸くずのようなものであること、だからこそその程度の反応で充分であることを、唐突に、はた、という音とともに、分かってしまった。その瞬間、大野の左耳のピアスの反射は、ぐるんぐるんと大きく渦巻いていった。
「大野、これ飲んだら行こっか」
「え待って、機嫌悪くなってる?」
「全然。楽しい」
「明日早いの?てかまだ泣いてるじゃん」
「いやこれはなんかさっきの残り」
「浦田って本当に彼氏のこと好きだよな」
「大野が私のこと好きなんじゃない」
「は、きっつ」
そう言って大野は笑って残っていたビールを飲み干した。さっきまで横にいた大野とは全く違う大野が、さっきまで横にいた大野と全く同じ動きで、さらりとした髪をすっとかきあげた。
「駅まで送って行こうか」
大野、そうじゃないんだよ。
「大野、そうじゃないんだよ」
「え?」
大野、帰んなよって言ってみて。
「大野、言ってみたことある?」
「うん?」
「帰んなよ、とか」
「キムタク風に?ってこと?」
大野、ずれてるよ、大野。
「大野、ずれてるよ、大野」
「なにが?」
「大野」
「わけわからん、なに」
「なんか今日、もう一軒いきたい」
「おん?おん」
大野、おん、じゃないんだよ、大野。
「大野」
「何回言うんだよ」
「軽蔑しないでほしいんだけど」
「うん」
「このまま頑張って口説いてみたら」
「は、きも、何それ」
「はあ」
「いや俺、お前のこと口説かなかったこと一回もないと思ってるけど」
「大野」
大野。
「大野」
「もういいってなに」
「大野の匂い、こんなんだっけ」
「おん?おん」
おん、じゃないんだよ、大野、と思った次の瞬間には、カウンターの上で震える着信画面に気が付いた。私は彼からもらったその腕時計が巻きついた左手でスマホをそっと掴み、しばらく画面を眺めていた。
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