新高 (防護巡洋艦)
艦歴 | |
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計画 | 第二期拡張計画[1] |
起工 | 1901年1月7日 |
進水 | 1902年11月15日 |
就役 | 1904年1月27日 |
最期 | 1922年8月26日座礁転覆 |
除籍 | 1923年4月1日 |
その後 | 現地で解体 |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:3,366t |
全長 | 102.0m(垂線間長) |
全幅 | 13.44m |
吃水 | 4.92m |
機関 | ニクローズ式石炭専焼罐16基 レシプロ蒸気機関2基、2軸推進 9,400馬力 |
燃料 | 石炭600t |
最大速力 | 20.0ノット |
航続距離 | |
乗員 | 320名 |
兵装 | 40口径152mm単装速射砲6門 40口径76mm単装速射砲10門 47mm単装砲4門 |
装甲 | 甲板傾斜部:76mm 司令塔:100mm |
新高(にいたか/にひたか)は、日本海軍の軍艦[2][3]。 艦名は当時日本領内の最高峰であった台湾の「新高山」(現「玉山」)にちなんで名づけられた[2]。 新高型防護巡洋艦の1番艦。 建造時の艦種は三等巡洋艦[4]。続いて二等巡洋艦に類別[5]。旧式化により二等海防艦に類別された[6]。 1922年(大正11年)8月26日、カムチャツカ半島で悪天候により遭難、沈没した[7][8]。
艦型
[編集]兵装
[編集]それまで巡洋艦の主砲はアームストロング社から輸入した安式砲であったが、新高からは国産の四一式砲となった。
艦歴
[編集]1901年(明治34年)1月7日、横須賀工廠で起工[2]。1902年(明治35年)11月15日の新高進水式には[2]、明治天皇皇后(のち昭憲皇太后)が臨席した[9][10]。 同日附で第一号三等巡洋艦は制式に「新高」と命名される[11][3]。三等巡洋艦に類別[4][12]。 1904年(明治37年)1月27日に竣工[2]。新高と装甲巡洋艦磐手は二本スクリュー内側回転のため、操艦の難しい艦として有名であったという[13]。
日露戦争では、仁川沖海戦、旅順攻略作戦、蔚山沖海戦(直接の戦闘には間に合わず)、日本海海戦等に参加[2][14]。
1912年(大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表を改訂する[15]。排水量7,000トン未満の巡洋艦を『二等巡洋艦』と規定したため[15]、新高以下13隻が二等巡洋艦に類別された[16][5]。
第一次世界大戦では、青島攻略戦に参加、さらにインド洋、南アフリカ水域での作戦に従事した[2]。
尼港事件後の1920年6月、「新高」はカムチャツカ半島へ派遣された[17]。
1921年(大正10年)初頭には巡洋艦2隻(利根、新高)で第二南遣艦隊(吉田清風少将)を編制していたが間もなく解隊され、「新高」(当時の新高艦長今村信次郎中佐、副長柳沢恭亮少佐、航海長福留繁大尉)[18]は単独で東南アジア方面の巡航に従事した[19]。5月から9月にかけて、南シナ海、オランダ領東インド諸島、スラバヤ・バタビア方面の警備と調査をおこなっている[2]。
同時期、欧州訪問を終えた皇太子(のち昭和天皇。当時20歳)は御召艦「香取」に乗艦し、帰路についていた[20]。8月21日、「香取」(艦長漢那憲和大佐)および随艦「鹿島」(第三艦隊司令長官小栗孝三郎中将、鹿島艦長小山武大佐)はカムラン湾に到着した[21]。「新高」及び給炭艦「室戸」(侍従甘露寺受長乗艦)は2隻を出迎えた[22]。 8月23日、給炭作業の合間に皇太子と閑院宮載仁親王は「新高」に乗艦し、乗組員の歓迎を受けた[23]。8月25日午前6時、艦隊(香取、鹿島、新高、室戸)はカムラン湾を出発、「室戸」は台湾へ、「新高」はマニラへ向かい、日本を目指す戦艦2隻(香取、鹿島)と別れた[24]。 9月1日、本艦含め二等巡洋艦5隻(千歳、須磨、明石、新高、対馬)は二等海防艦に類別変更された[25][6]。
1922年(大正11年)6月10日、古賀琢一大佐(新高艦長)指揮下の3隻(海防艦〈新高〉、第1駆逐隊〈欅、槇〉)は室蘭を出発、漁船保護を主任務として北方海域に向かった[26]。8月25日、カムチャツカ半島(オホーツク海)で漁業保護任務に従事中の「新高」はオジョールナヤ基地沖で停泊中、夕刻より天候が急変する[26][27]。新高乗組員は「千島列島の火山が噴火したのか」と噂していたという[26]。その後、新高は暴風(台風)に遭遇し、8月26日午前5時30分から午前6時頃にかけて北緯51度33分 東経156度28分 / 北緯51.550度 東経156.467度地点で座礁、右舷に転覆した[28][29]。
8月27日正午、海岸に漂着した岡田一等水兵よりキスカ島電信所を通じて遭難報告を受けた第一駆逐隊司令中川鞆信中佐は[30][31]、駆逐艦「欅」から「槇」(艦長山中順一少佐、水雷長小柳冨次大尉)に移乗(欅は座礁によりスクリュー損傷中)[26]。ペトロパブロフスクを出撃し、占守海峡を通過して8月28日朝になり新高遭難現場に到着する[26]。 新高艦長の古賀琢一大佐以下300余名(傭人4名)の乗員のうち生還したのは[32]、岡田水兵と艦内から救助された機関兵15名(1名は救出後に死亡)のみであった[29][26]。 また新高遭難現場には、9月4日に室戸型給炭艦2番艦「野島」[33]、同月6日に装甲巡洋艦「八雲」も派遣されている[34][35]。 新高沈没の情況は皇太子(のちの昭和天皇)にも報告された[7]。殉職者の葬儀は9月29日(下士官兵)と9月30日(艦長以下士官)に行われた[36]。
翌1923年(大正12年)4月1日、「新高」は除籍[2][37]。艦艇類別等級表からも除かれた[38][39]。「新高」の残骸については、工作艦「関東」(艦長内藤省一大佐)の手により現地で解体処分および遺体の回収が実施された[40]。
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- (兼)荘司義基 中佐:1903年7月21日 - 1903年12月28日
- 荘司義基 中佐:1903年12月28日 - 1905年12月20日
- 山縣文蔵 大佐:1905年12月20日 - 1906年8月30日
- 宮地貞辰 大佐:1906年8月30日 - 1906年11月22日
- 秀島成忠 中佐:1906年11月22日 - 1908年4月7日
- 中島市太郎 中佐:1908年4月7日 - 1908年12月23日
- 笠間直 大佐:1909年5月19日 - 回航中
- 桜野光正 中佐:1909年12月1日 - 1911年10月25日
- 榊原忠三郎 大佐:1911年10月25日 - 1912年12月1日
- 飯田久恒 大佐:1913年4月1日 - 1913年9月13日
- 秋沢芳馬 中佐:1913年9月13日 - 1914年5月27日
- 小林研蔵 中佐:1914年8月13日 - 1914年10月30日
- 野崎小十郎 中佐:1914年10月30日 - 1915年3月20日
- 岩田秀雄 大佐:1915年4月1日[41] - 1916年12月1日
- 安村介一 大佐:1916年12月1日 - 1917年2月7日
- 犬塚太郎 大佐:1917年2月7日 - 1917年11月22日
- 黒瀬清一 大佐:1917年12月1日 - 1918年5月13日
- 名古屋為毅 大佐:1918年5月13日[42] - 1919年5月26日[43]
- 有田秀通 中佐:1919年5月26日[43] - 1920年11月20日
- (心得)今村信次郎 中佐:1920年11月20日 - 1920年12月1日
- 今村信次郎 大佐:1920年12月1日 - 1921年9月2日[44]
- 野村仁作 大佐:1921年9月2日[44] - 1922年5月15日[45]
- 古賀琢一 大佐:1922年5月15日[45] - 1922年8月26日(殉職)
同型艦
[編集]参考文献
[編集]- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 宮内庁 編『昭和天皇実録 第三 自大正十年至大正十二年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 9784487744039。
- 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
- 財団法人水交会「元海軍中将 小柳冨次」『帝国海軍提督達の遺稿 下 小柳資料 敗戦後十余年海軍の中枢が語った大東亜戦争への想い』水交会、2010年4月。
- 『造艦技術の全貌』興洋社、昭和27年。
- 波多野勝『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』草思社、1998年5月。ISBN 4-7942-0821-9。
- 原武史『大正天皇 朝日選書663』朝日新聞社、2000年11月。ISBN 4-02-259763-1。
- 福留繁『海軍生活四十年』時事通信社、1971年5月。 福留は大正9年~大正10年にかけて新高航海長。
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡I』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5
- 麻田雅文『シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争』中央公論新社、2016年、ISBN 978-4-12-102393-3
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍文庫『大日本帝国軍艦帖』共益商社書店、1894年10月 。
- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷)』海軍大臣官房、1939年 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 竹村浩吉「軍艦新高の遭難」『北洋物語 漁業日本』三省堂、1944年2月 。
- 坪谷善四郎編『日露戦役海軍写真集. 第4輯』博文会、1906年7月 。
- 帝国水難救済会 編『帝国軍艦帖』帝国水難救済会出版部、1916年5月 。
- 中島武『明治の海軍物語』三友社、1938年11月 。
- 中島武『大正の海軍物語』三友社、1938年11月 。
- 藤田定市編『戦袍余薫懐旧録.第2輯』財団有終會、1926年12月 。
- 藤田定市編『戦袍余薫懐旧録.第3輯』財団有終會、1928年1月 。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『海軍大佐古賀琢一外三名叙位ノ件/陸軍工兵大尉中田武実』。Ref.A11113016000。
- 『故海軍大佐古賀琢一外三名位階追陞ノ件』。Ref.A11113062000。
- 『献納品御下賜品(2)』。Ref.C08020474300。
- 『海軍省公報』。Ref.C08050477900。
- 『第4駆逐隊救難報告(1)』。Ref.C08050478500。
- 『第4駆逐隊救難報告(2)』。Ref.C08050478600。
- 『第4駆逐隊救難報告(3)』。Ref.C08050478700。
- 『軍艦八雲救難報告 新高遭難に関しては更に第53巻にもあり(1)』。Ref.C08050478800。
- 『軍艦八雲救難報告 新高遭難に関しては更に第53巻にもあり(2)』。Ref.C08050478900。
- 『軍艦八雲救難報告 新高遭難に関しては更に第53巻にもあり(3)』。Ref.C08050479000。
- 『軍艦八雲救難報告 新高遭難に関しては更に第53巻にもあり(4)』。Ref.C08050479100。
- 『軍艦八雲救難報告 新高遭難に関しては更に第53巻にもあり(5)』。Ref.C08050479200。
- 『軍艦新高遭難者合同葬儀一件(1)』。Ref.C08050422500。
- 『軍艦新高遭難者合同葬儀一件(2)』。Ref.C08050422600。
- 『軍艦新高遭難者合同葬儀一件(3)』。Ref.C08050422700。
- 『軍艦新高遭難者合同葬儀一件(4)』。Ref.C08050422800。
- 『軍艦新高遭難者合同葬儀一件(5)』。Ref.C08050422900。
- 『軍艦新高遭難者合同葬儀一件(6)』。Ref.C08050423000。
- 『軍艦新高後始末関係(1)』。Ref.C08050718700。
- 『軍艦新高後始末関係(2)』。Ref.C08050718800。
- 『軍艦新高後始末関係(3)』。Ref.C08050718900。
- 『軍艦新高後始末関係(4)』。Ref.C08050719000。
- 『軍艦新高後始末関係(5)』。Ref.C08050719100。
- 『軍艦新高後始末関係(6)』。Ref.C08050719200。
- 『軍艦新高後始末関係(7)』。Ref.C08050719300。
- 『軍艦新高後始末関係(8)』。Ref.C08050719400。
- 『軍艦新高後始末関係(9)』。Ref.C08050719500。
- 『雑隷凾館市主催軍艦新高殉難者7年追悼会概況報告 霞ヶ浦神社祭典に関する件 祝賀会に関する件』。Ref.C04016080100。
- 『明治35年 達 完/11月』。Ref.C12070047400。
- 『大正1年 達 完/8月』。Ref.C12070064400。
- 『大正10年 達 完/9月』。Ref.C12070079200。
- 『大正12年 達 完/4月(1)』。Ref.C12070081900。
- 『官報』
脚注
[編集]- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.9、明治二十九年
- ^ a b c d e f g h i #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ63(原本93頁)『 三等巡洋艦 二檣(信號用) 山名に採る、新高山は臺灣の臺中縣・臺東縣に跨る。日清戰役後臺灣島が帝國の領土に歸せしとき、此新領土に高山あること 叡聞に達しければ、其山を「新高山」と命名せられたりとも云ふ、支那人は玉山又は八通關山と稱し、西洋人は「モリソン」山と云ふ、標高13,679尺
明治37・8年戰役に從軍(第四戰隊):同37年2月仁川沖海戰に参加(艦長中佐荘司(後に庄司)義基)、同37年8月蔚山沖海戰に参加(艦長同前)、同38年5月第三戰隊に属し日本海々戰に参加(艦長同前)、大正元年8月二等巡洋艦に列す。同3年乃至9年戰役に從軍:同3年10月第三艦隊に属し南支那海・インド洋方面軽微(艦長中佐小林研藏、同野崎小十郎)、同6年9月第一特務艦隊に属し喜望峰南方警備(艦長大佐犬塚太郎、同名古屋爲毅)、同10年二等海防艦に列す、同11年露領沿岸警備中、同8月16日堪察加沖にて遭難沈没(艦長古賀琢一)、同12年4月1日除籍。
―要目― 長334.5呎/幅44呎/喫水16呎/排水量3,420噸/機關 三聯成汽機2基 ニクロース式罐16臺/馬力9,500/速力20/乗組人員320/船材 鋼/兵装 6吋砲6/12听砲10/2.5听砲4/起工 明治35-1-7/進水 同35-11-15/竣工 同37-1-27/建造所 横須賀』 - ^ a b #達明治38年11月p.2『達第百二號 横須賀海軍造船廠ニ於テ建造ノ第一號三等巡洋艦ヲ
新 高 ト命名セラル 明治三十五年十一月十五日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』 - ^ a b #達明治38年11月p.2『達第百四號 軍艦及水雷艇類別等級別表中巡洋艦三等ノ欄内ニ「新高」ヲ加フ』
- ^ a b #達大正1年8月p.33『達第十二號 艦艇類別等級別表ノ通改正ス 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 斎藤實|艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|笠間、千歳、津輕、宗谷、利根、筑摩、平戸、矢矧、須磨、明石、新高、對馬、音羽|』
- ^ a b #達大正10年9月p.1『達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵加藤友三郎 戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』
- ^ a b #昭和天皇実録三巻704頁『(大正十一年九月)四日 月曜日(軍艦新高遭難状況を御聴取)午前、鳩彦王参殿につき御対顔になる。海軍次官井出謙治参殿につき謁を賜う。井出次官は海軍大臣加藤友三郎の代理として去る八月二十六日カムチャッカのオゼルナヤ沖において軍艦新高が停泊中に転覆遭難した状況を言上する。これに対し、多数の将卒の死を悼み、かつ遺族に同情する旨の御言葉を賜う。(以下略)』
- ^ #大正の海軍物語コマ122-123(原本225-226頁)『軍艦新高の遭難』
- ^ 明治35年11月17日官報第5812号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ11『○皇后宮行啓 皇后陛下ハ御豫定ノ如ク一昨日十五日午前九時三十分御出門同十時新橋停車場御發車横須賀軍港ヘ行啓軍艦新高進水式場ヘ臨御式擧リ鎮守府ニ於テ御休憩ノ後午後四時十分横須賀停車場御發車同六時十五分還御アラセラレタリ』
- ^ #献納品御下賜品(2)p.3『一 新高進水式用槌』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ198番『◎三等巡洋艦新高命名ノ件』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ51番『明治三十五年十一月十五日(達一〇四)軍艦及水雷艇類別等級別表中巡洋艦三等ノ欄内ニ「新高」ヲ加フ』
- ^ 福留繁 1971, p. 179.
- ^ #帝国軍艦帖コマ91(原本38頁)『二等巡洋艦 新高』
- ^ a b #達大正1年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 斎藤實』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ56番『◎艦艇類別等級 大正元年八月二十八日(達一二)艦艇類別等級別表ノ通改正ス(別表)
- ^ 麻田雅文『シベリア出兵』173ページ
- ^ 福留繁 1971, p. 142.
- ^ 福留繁 1971, p. 139〈軍艦新高の南洋巡航〉
- ^ #昭和天皇実録三巻417頁『ナポリ御出港』
- ^ #昭和天皇実録三巻438-439頁『(大正十年八月)二十一日 日曜日』
- ^ #皇太子外遊記150頁
- ^ #昭和天皇実録三巻441頁『(大正十年八月)二十三日 火曜日 軍艦新高にお出まし/午前九時三十分、載仁親王御同伴にて軍艦新高にお成りになり、艦長今村信次郎以下乗組員一同に謁を賜う。ついで相撲、尺八演奏等の余興を御覧の後、十一時三十分御帰還になる。(以下略)』
- ^ #昭和天皇実録三巻442頁『(大正十年八月)二十五日 木曜日 カムラン湾御出港』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59番『大正十年九月一日(達一六四)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス』
- ^ a b c d e f #小柳資料下546-547頁『新高の遭難救援』
- ^ #大正の海軍物語コマ123-124(原本227-228頁)
- ^ #公報(新高遭難)pp.5-6『(二)新高ハ「オゼルナヤ」沖碇泊中二十五日夜半ヨリ南東風次第ニ募リ暴風雨ノ徴アリシヲ以テ双錨泊ヲナシ續テ至急点火ヲ命シタルカ二十六日午前四時頃ヨリ風向南西ニ急変シ風雨大ニ至リ咫尺ヲ辨セス山ナス怒濤ハ一浪毎ニ艦ヲ呑ミ見ルヽ上甲板ハ一面ノ海ト化シ海水瀧ノ如ク艦内ニ奔流シ罐室ノ焚火意ノ如クナラス午前五時半頃衝撃ヲ感スルト同時ニ船体右舷ニ傾斜シ同六時遂ニ顛覆乗員一同施スニ策ナク艦ト運命ヲ共ニセリ』
- ^ a b #公報(新高遭難)pp.3-5『八月二十八日正午駆逐艦槇新高遭難地着、本朝迄ニ受領セル第四駆逐隊司令ノ報告ヲ綜合スルニ (一)新高ハ北緯五十一度三十三分東経百五十六度二十八分「オゼルナヤ」河口ノ北方四浬ノ沖合四百米ニ於テ艦首ヲ沖ニ向ケ横倒レトナリ左舷「ブリヂキール」直上船腹ノ一部ヲ現シ沈没セリ駆逐艦槇投錨後直ニ生存者ノ声ヲ聞キタル罐室舩腹二個所ニ穿孔シ機関部員十五名ヲ救助シ尚一ヶ所機関室ニ穿孔シタルモ生存者ヲ発見セス今迄ノ生存者氏名左ノ如シ(生存者氏名略)計十六名 右以外爾後生存者無キ見込』
- ^ #大正の海軍物語コマ126-127(原本232-234頁)
- ^ #北洋物語コマ108-109(原本188-189頁)
- ^ 「大正11年9月7日(木)海軍公報 第2975号 p.18」 アジア歴史資料センター Ref.C12070283000 『○大正十一年八月二十六日軍艦新高遭難ノ際殉職セル者左ノ如シ(官氏名略)下士官九〇名 兵二〇二名 傭人四名』
- ^ 「大正11年9月4日(月)海軍公報 第2972号 p.10」 アジア歴史資料センター Ref.C12070283000 『○艦船所在○九月四日午前十時調【オゼルナヤ河口】新高、(司令)槇、野島』
- ^ 「大正11年9月6日(木)海軍公報 第2974号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C12070283000 『○艦船所在○九月六日午前十時調【オゼルナヤ河口』新高、八雲、(司令)槇、野島』
- ^ #大正の海軍物語コマ127-128(原本235-236頁)
- ^ 「大正11年9月23日(土木)海軍公報 第2989号 p.18」 アジア歴史資料センター Ref.C12070283100 (新高遭難者葬儀告示)
- ^ #達大正12年4月(1)p.13『達第七十三號 軍艦 新高 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十二年四月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59番『大正十二年四月一日(達七四)艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「新高、」ヲ削除ス』
- ^ #達大正12年4月(1)p.13『達第七十四號 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「新高、」ヲ削除ス 大正十二年四月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』
- ^ #大正の海軍物語コマ128-130(原本236-241頁)
- ^ 「海軍辞令公報 大正4年4月」 アジア歴史資料センター Ref.C13072071100
- ^ 『官報』第1732号、大正7年5月14日。
- ^ a b 『官報』第2043号、大正8年5月28日。
- ^ a b 『官報』第2728号、大正10年9月3日。
- ^ a b 『官報』第2934号、大正11年5月16日。