ボヤーリン (防護巡洋艦)
ボヤーリン Боярин | ||
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バルト海上のボヤーリン | ||
艦歴 | ||
起工 | 1900年8月24日 ブルマイスター&ヴァイン社 | |
進水 | 1901年5月26日 | |
竣工 | 1902年 | |
所属 | ロシア帝国海軍バルト艦隊 | |
難破 | 1904年1月29日 | |
沈没 | 1904年1月31日 | |
要目 | ||
艦種 | 二等巡洋艦(防護巡洋艦) | |
艦級 | ボヤーリン級 | |
排水量 | 3274 t | |
全長 | 108.4 m | |
全幅 | 12.6 m | |
喫水 | 4.9 m | |
機関 | 蒸気機関 | 2 基 |
ベルヴィル[要曖昧さ回避]式ボイラー | 16 基 | |
出力 | 11190 馬力 | |
プロペラシャフト | 4 基 | |
スクリュープロペラ | 4 基 | |
燃料 | 600 t | |
速力 | 22.5 kn | |
航続距離 | 3000 nm/10 kn | |
乗員 | 士官 | 16 名 |
水兵 | 315 名 | |
武装 | 45口径120 mm単装砲 | 6 基 |
43口径47 mm単装砲 | 8 門 | |
23口径37 mm単装砲 | 1 門 | |
20口径63.5 mm単装上陸砲 | 2 門 | |
7.62 mm機銃 | 2 挺 | |
381 mm水中魚雷発射管 | 5 門 | |
装甲 | 材質 | クルップ鋼 |
下部甲板 | 30 - 51 mm | |
司令塔 | 76 mm |
ボヤーリン(ロシア語:Бояринバヤーリン)は、ロシア帝国の二等防護巡洋艦(бронепалубный крейсер II-ранга)である。艦名は先代のコルベットから受け継いだもので、中世ルーシの世襲貴族「ボヤーリン」に由来している[1]。
概要
[編集]ボヤーリンは、二等防護巡洋艦ノヴィーク、ジェームチュク、イズムルートとともに極東方面の艦隊戦力増強のために計画された艦であった。建造は 「太平洋の必要のための」特別建艦計画によって行われた。
艦の任務は、艦隊の近距離偵察とされていた。設計は、棚式から吊り下げ式に変更された120 mmおよび47 mm砲弾庫と新しい給弾用エレベーターシャフト、電線通路の気密水密覆い、鉛張りケーブルの採用、などの点に先進性が見られた。
1900年8月24日、コペンハーゲンのブルマイスター&ヴァイン社(現MAN B&W ディーゼル社)で起工した。1901年5月26日には進水、1902年10月に竣工した。
1902年10月27日、ボヤーリンはクロンシュタットを出航し、1903年5月10日、ポルト=アルトゥールへ到着した。1903年秋には仁川に出航し、一等防護巡洋艦ヴァリャーグを支援して同港に1904年1月1日まで留まった。
1904年1月27日[2]、偵察任務に就いていたボヤーリンは戦艦三笠を旗艦とする日本海軍主力艦隊を発見した。ボヤーリンは左舷方向に移動しながら応戦しつつ、味方艦隊へ敵艦隊発見の報を知らせた。
日本艦隊による旅順艦隊攻撃が終わると、ボヤーリンは大連湾へ機雷を敷設に向かう機雷敷設艦エニセイを護衛し、それから旅順に戻った[3]。エニセイは機雷の敷設を行ったが、1月29日に自艦が敷設した機雷に触れて沈没した[4]。このエニセイの沈没は日本軍の機雷または駆逐艦によるものと誤認され、大連警備司令官は日本軍駆逐艦出現を報告。それを受けてボヤーリンと駆逐艦ヴラーストヌイ、フヌシーチェリヌイ、ストロジェヴォーイ、ラストロープヌイが大連湾へ向かうよう命じられた[5]。ボヤーリンと4隻の駆逐艦は1月29日午後3時30分ごろに旅順から出撃したが、同日午後5時ごろに南三山島南方沖で味方の敷設した [6]機雷に触れた[7]。触雷による浸水で15度傾斜するも沈没はしなかったが、ボヤーリン艦長サルイチェフ大佐は乗員を退去させて駆逐艦にボヤーリンの処分を命じた[7]。そして駆逐艦ストロジェヴォーイがボヤーリンに対して魚雷を発射したが命中せず、ボヤーリンは放置された[7]。翌日南三山島に座礁しているところが発見され修理可能と判断されたが、翌日は荒天のため作業が行えず、その翌日には姿を消していた[8]。暴風により流されて再度触雷し沈没したようであり、住民が数度の爆発音を聞いている[9]。
ギャラリー
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1903年、極東におけるボヤーリン。
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左舷より見たボヤーリン。
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右舷前方より見たボヤーリン。
脚注
[編集]- ^ キエフ・ルーシ時代から大貴族を意味する階級名称であったが、特にモスクワ大公国(のちロシア・ツァーリ国)では、社会階層ではなく貴族会議(ボヤールスカヤ・ドゥーマ)の最高仕官位に組み替えられており、日本語文献では「会議貴族」とも翻訳されている。軍艦の名がどの時代の「ボヤーリン」を想定しているかは不明であるが、艦の建造時期から考えれば、モスクワ大公国式の「会議貴族」であると考えるのが妥当である。なお、「ボヤーリン」は単数形で、階級そのものを表す場合は複数形の「ボヤーレ」(бояре)を用いる。
- ^ 当時ロシアで使用されていたユリウス暦による。現代のグレゴリオ暦では2月9日になる。
- ^ 日露旅順海戦史、30ページ
- ^ 日露旅順海戦史、30-31ページ
- ^ 日露旅順海戦史、31ページ
- ^ ニコライ2世の日記、2月13日
- ^ a b c 日露旅順海戦史、32ページ
- ^ 日露旅順海戦史、32-33ページ
- ^ 日露旅順海戦史、33ページ
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- А. В.Скворцов Крейсер II ранга «Боярин» (A・V・スクヴォルツォーフ著『二等巡洋艦「ボヤーリン」』、電子化サイト)
- Светлана Самченко Крейсер "Боярин" - ENOTH DESIGN (スヴェトラーナ・サムチェーンコ著『巡洋艦「ボヤーリン」』、電子化サイト)
- 真鍋重忠、『日露旅順海戦史』、吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
外部リンク
[編集]- Бронепалубный крейсер "Боярин" - Архив фотографий кораблей русского и советского ВМФ.
- ICS MMT - Cruiser "Boyarin"
- Бронепалубный крейсер 2 ранга "Боярин" - Русско-Японская война на море 1904-1905 г.г.
- Крейсер 2 ранга "Боярин" - История Русского флота ТТД, фотографии, битвы, история и боевая служба
- Combat ships of Russian fleet - cruisers[リンク切れ]
- Tsushima - Рапорт Командира крейсера II ранга "Боярин" Начальнику эскадры Тихого океана. 30 Января 1904 года №151.