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フォルモスス (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フォルモスス
第111代 ローマ教皇
教皇就任 891年10月6日
教皇離任 896年4月4日
先代 ステファヌス5世
次代 ボニファティウス6世
個人情報
出生 816年
教皇領ローマ?
死去 896年4月4日
教皇領ローマ
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死体裁判』を描いたジャン=ポール・ローランス作、『フォルモススとステファヌス7世[1]』、1870年.

フォルモスス(Formosus, 816年頃? - 896年4月4日[2])は、第111代ローマ教皇(在位:891年 - 896年)。

864年に教皇ニコラウス1世によりポルトガルポルト司教枢機卿となり、866年には教皇特使としてビザンティンの正教会からの独立を望んでいたブルガリアへと派遣された。熱心に布教活動を行い、ブルガール人キリスト教に改宗させた。また、ブルガリア王ボリス1世からブルガリア教会の長となることを提案されたが、ニコラウス1世やハドリアヌス2世により反対され、フォルモススはローマに召喚された[3][4][5]。これにより、ブルガリアはギリシャ正教を採用し、やがてブルガリア正教会が設立されることとなった。

875年のクリスマスの日には、ローマで西フランクシャルル2世をローマ皇帝として戴冠している。しかし、時の教皇ヨハネス8世の反発を買い、翌876年破門に処せられている。883年に次の教皇マリヌス1世により赦免されポルト司教に復帰、891年のステファヌス5世の死後教皇に選出された[4][5]

教皇に就任すると、スポレート公兼ローマ皇帝グイード・ダ・スポレートランベルト・ダ・スポレート父子の圧力に苦しめられ、892年にグイードに強いられランベルトを共同皇帝として戴冠させた。しかしグイードの圧力に耐えかねて翌893年東フランクアルヌルフへ助けを求め、応じたアルヌルフが894年イタリアへ遠征(グイードは同年死去)、896年2月にローマへ入城したアルヌルフを皇帝として戴冠させた。ところが、アルヌルフは脳溢血に倒れイタリアを去り、フォルモススも4月に死亡したためランベルトがローマの支配者になり、フォルモススの死後選出されたボニファティウス6世の急死に伴いステファヌス6世を教皇に擁立した[3][5][6][7]

死後、ランベルトに焚きつけられたステファヌス6世によって墓が暴かれ、遺体が模擬裁判で引きずり出された末にテヴェレ川に流されている(死体裁判)。フォルモススの名誉が回復されたのは、裁判に反発した民衆暴動でステファヌス6世が廃位・殺害された後に選出された教皇ロマヌスの時代であり、続く教皇テオドルス2世の時代にテヴェレ川から遺体が引き揚げられ、バチカンに葬られた。そして教皇ヨハネス9世により死体裁判の無効が宣言された[3][5][7][8]

脚注

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  1. ^ 絵画が制作された時代では「7世」と呼ばれていた。
  2. ^ Formosus pope Encyclopædia Britannica
  3. ^ a b c キリスト教人名辞典、P1259。
  4. ^ a b バンソン、P65。
  5. ^ a b c d 新カトリック大事典、P303。
  6. ^ バンソン、P65 - P66、P284 - P285。
  7. ^ a b スチュアート、P91。
  8. ^ バンソン、P66 - P67、P285。

参考文献

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  • Paul Collins, The Birth of the West, PublicAffairs, 2013.
  • 『キリスト教人名辞典』日本基督教団出版局、1986年。
  • P.G.マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳、高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年。
  • マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。
  • 学校法人 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典 第4巻』研究社、2009年。

外部リンク

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