フェラン (フランドル伯)
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フェルナンド・デ・ポルトゥガル Fernando de Portugal | |
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フランドル伯 | |
ブーヴィーヌの戦いに敗れ、捕虜となったフェラン。 | |
在位 | 1212年 - 1233年 |
出生 |
1188年3月24日 ポルトガル王国、コインブラ |
死去 |
1233年7月27日(45歳没) フランス王国、ノワイヨン |
埋葬 | フランス王国、マルケット |
配偶者 | フランドル女伯ジャンヌ |
子女 | マリー |
家名 | ブルゴーニュ家 |
父親 | ポルトガル王サンシュ1世 |
母親 | ドゥルセ・ベレンゲル・デ・バルセロナ |
フェルナンド・デ・ポルトゥガル(ポルトガル語:Infante Fernando de Portugal, 1188年3月24日 - 1233年7月27日)は、ポルトガルの王族(インファンテ)でフランドル伯(在位:1212年 - 1233年)。父はポルトガル王サンシュ1世、母はバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世とアラゴン女王ペトロニーラの長女ドゥルセ。ポルトガル王アフォンソ2世は兄、デンマーク王ヴァルデマー2世の妃ベレンガリアは妹に当たる。フランス語でフェラン(Ferrand)とも呼ばれる。
生涯
[編集]1212年、フランドル女伯ジャンヌと結婚、共同統治者としてフランドルを統治した。しかし、フランス王フィリップ2世の息子のルイ王太子(のちのルイ8世、母イザベルがジャンヌの伯母)にフランドル南部の土地を奪われたため、イングランド王ジョンおよび神聖ローマ皇帝オットー4世と同盟を結んでフィリップ2世に対抗したが、1214年のブーヴィーヌの戦いで敗れて捕虜となり、1227年まで解放されなかった。これ以降、フランドルはフランス王家の影響下に置かれるようになった。
1233年、ノワイヨンで死去した。ジャンヌとの間に娘マリーしか生まれなかった。ジャンヌはフェランが死んだ後にサヴォイア伯トンマーゾ1世の息子トマと再婚したが、子供がなかったため、ジャンヌの死後は妹マルグリットが継承した。
参考文献
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