ガンネル (潜水艦)
USS ガンネル | |
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基本情報 | |
建造所 | エレクトリック・ボート造船所 |
運用者 | アメリカ海軍 |
艦種 | 攻撃型潜水艦 (SS) |
級名 | ガトー級潜水艦 |
艦歴 | |
起工 | 1941年7月21日[1] |
進水 | 1942年5月27日[1] |
就役 | 1942年8月20日[1] |
退役 | 1946年5月18日[2] |
除籍 | 1958年9月1日[2] |
その後 | 1959年8月1日にスクラップとして売却[2] |
要目 | |
水上排水量 | 1,525 トン[3] |
水中排水量 | 2,424 トン[3] |
全長 | 311フィート9インチ (95.02 m)[3] |
水線長 | 307フィート (93.6 m) |
最大幅 | 27フィート3インチ (8.31 m)[3] |
吃水 | 17フィート (5.2 m)(最大)[3] |
主機 |
ホーヴェン=オーエンス=レントシュラー(H.O.R.)ディーゼルエンジン×4基 (換装後)ゼネラルモーターズ278A 16気筒ディーゼルエンジン×4基[3] |
電源 | ゼネラル・エレクトリック製 発電機×2基[3] |
出力 | 5,400馬力 (4.0 MW)[3] |
電力 | 2,740馬力 (2.0 MW)[3] |
推進器 | スクリュープロペラ×2軸[3] |
最大速力 |
水上:21ノット[4] 水中:9ノット[4] |
航続距離 | 11,000カイリ/10ノット時[4] |
航海日数 | 潜航2ノット時48時間、哨戒活動75日間[4] |
潜航深度 | 試験時:300フィート (91 m)[4] |
乗員 | (平時)士官6名、兵員54名[4] |
兵装 |
ガンネル (USS Gunnel, SS-253) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はゲンゲ亜目に属するギンポ類の総称に因む。
艦歴
[編集]「ガンネル」はコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工した。1942年5月17日にベン・モレル夫人(海軍造船局長ベン・モレル少将の妻)によって進水し、艦長ジョン・S・マケイン・ジュニア少佐(アナポリス1931年組)の指揮下8月20日に就役する。
「ガンネル」から「パーゴ (USS Pargo, SS-264) 」までのエレクトリック・ボートで建造されたガトー級潜水艦には、本来搭載されるべきエンジンの製造が間に合わなかったためか、2サイクル複動九気筒型H.O.R.社製エンジンを搭載して竣工した。しかし、このエンジンはトラブルが多く信頼性に欠けていたため、対象の全艦が、オーバーホールの際に換装を行っている。
大西洋での第1の哨戒 1942年10月 - 12月
[編集]10月19日、「ガンネル」は最初の哨戒でアメリカからイギリスまでの航路を向かった後、ヘンリー・K・ヒューイット大将指揮下の西部方面海軍機動部隊に配属され、トーチ作戦に参加した6隻の潜水艦の内の1隻となった。11月6日、作戦の2日前にカサブランカの北東にある港町フェドハラを偵察し、作戦当日の11月8日には海岸へ向かう艦隊を信号を用いて先導した。12月7日、49日間の行動を終えてスコットランドのロスネースに帰投した。
この後、ガンネルは帰国の途に就く。しかし、帰路の途中H.O.R.エンジンが故障し、残る970海里 (1,800 km) の距離を補助エンジンで航行しなければならなかった。帰国するとメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所でオーバーホールが行われた。オーバーホールが完了すると、太平洋艦隊に配属され真珠湾に向かった。
第2、第3の哨戒 1943年5月 - 1944年1月
[編集]5月28日、「ガンネル」は2回目の哨戒で九州近海および東シナ海に向かった[7]。6月15日未明、北緯33度55分 東経127度38分 / 北緯33.917度 東経127.633度の巨文島の南東10海里の対馬海峡でレーダーにより目標を探知し、浮上しながら接近して魚雷を3本発射[8]。1本が船尾に命中し、さらに魚雷を4本発射して1本が命中[8]。この攻撃で輸送船「光洋丸」(大光商船、6,426トン)を撃沈した。4日後の6月19日朝には北緯32度30分 東経126度15分 / 北緯32.500度 東経126.250度の済州島南西100海里の水域で支第809船団を発見し、2隻の輸送船に対して魚雷を3本ずつ発射[9]。8時25分に輸送船「常盤丸」(鏑木汽船、6,971トン)の左舷後部に魚雷を1本命中させて撃沈し、他の魚雷は2隻の陸軍輸送船、「三池山丸」(菅谷汽船、3,179トン)および「宇賀丸」(松岡汽船、4,433トン)に向かったが回避された[10][11]。夜に入り浮上したところ、北緯32度40分 東経126度37分 / 北緯32.667度 東経126.617度の地点でレーダーにより「若竹型駆逐艦」らしい目標を探知し、魚雷を2本発射して1本を命中させ、目標を撃沈したと判断される[12]。このとき、敷設艇「巨済」は相前後して「ガンネル」を発見しており、砲撃を行って相手を撃沈したと報告した[13][注 1]。7月3日、31日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投[19]。のちにメア・アイランド海軍造船所に回航されてオーバーホールを受けた[20]。哨戒中にトラブルが頻発したので[21]、この際にH.O.R.エンジンからGM社製278Aエンジンへの換装を行っている[20]。
11月17日、「ガンネル」は3回目の哨戒で日本近海に向かった。12月2日夜、北緯26度03分 東経147度50分 / 北緯26.050度 東経147.833度の硫黄島近海でレーダーで6つの目標を探知する[22]。やがて、空母「瑞鳳」「雲鷹」「冲鷹」、重巡洋艦「摩耶」を中心とする艦隊を発見。空母に対して魚雷を4本発射したが命中しなかった[23][24]。2日後の12月4日、「ガンネル」は北緯29度36分 東経145度54分 / 北緯29.600度 東経145.900度の父島北東およそ520キロの海域で第3201船団を発見し、魚雷を4本発射[25][26]。魚雷は特設運送船「日吉丸」(巴組汽船、4,046トン)に命中して撃沈した[26][27]。12月22日にも北緯34度21分 東経138度39分 / 北緯34.350度 東経138.650度の地点で2隻の大型輸送船を発見し、魚雷を3本発射する用意をしたが、結局発射しなかった[28]。1944年1月7日、51日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。
第4、第5、第6の哨戒 1944年2月 - 9月
[編集]2月5日、「ガンネル」は4回目の哨戒で南シナ海、スールー海およびセレベス海に向かった。3月18日、北緯01度52分 東経120度39分 / 北緯1.867度 東経120.650度のタウィタウィ近海で、パラオからバリクパパンに向かう空母「千代田」と護衛の駆逐艦「電」および「響」を発見したものの、9,000ヤードより距離を縮めることができず、16発の爆雷で追い払われた[29][30][31]。「千代田」はバリクパパンで燃料補給ののち、東進してパラオに向かったが、「ガンネル」はその千代田を北緯01度28分 東経119度46分 / 北緯1.467度 東経119.767度の地点で3月22日に再び発見するも、11,000ヤード離れて15ノットで航行されては手の尽くしようもなかった[31][32][33]。結局、この哨戒では攻撃の機会は一度もなく、戦果は挙げられなかった[34]。3月30日にダーウィンに寄港[35]。4月6日、60日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
5月3日、「ガンネル」は5回目の哨戒で南シナ海に向かった。途中、当時この方面にいた空母「サラトガ」 (USS Saratoga, CV-3) とイギリス空母「イラストリアス」 (HMS Illustrious, R87) の搭載機が、5月17日にスラバヤを空襲する予定だったので(トランサム作戦)、その支援として「ガンネル」を含む8隻の潜水艦に救助任務を与えた。「ガンネル」は南緯06度05分 東経105度48分 / 南緯6.083度 東経105.800度のスンダ海峡沖で待機し、この任務に従事した[36]。空襲作戦が終わると哨戒海域に向かった。6月8日、北緯11度59分 東経112度29分 / 北緯11.983度 東経112.483度の地点でレーダーにより複数の目標を探知し、詳しく観測すると小型空母と3隻の輸送船を発見する[37]。浮上して追跡を開始するが、見張りの士官が「24マイル以内に航空機あり」と報告したため、これを避けなければならなかった[38]。再び追跡しようとした時には姿はすでになく、マケイン艦長の三度目の空母との接触も、相手に振り切られた形で終わった[38]。この哨戒でも攻撃の機会は一度もなく戦果は挙がらなかった[39]。7月4日、63日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がガイ・E・オニール・ジュニア少佐(アナポリス1937年組)に代わった。
7月29日、「ガンネル」は6回目の哨戒で「レイトン」(USS Raton, SS-270)、「ギターロ」 (USS Guitarro, SS-363) とウルフパックを構成しルソン島近海に向かった。8月18日、「ガンネル」は北緯13度10分 東経121度49分 / 北緯13.167度 東経121.817度の地点で6隻の海上トラックの船団を発見して、そのうちの1隻を破壊する[40]。2日後の8月20日未明には、北緯13度32分 東経121度26分 / 北緯13.533度 東経121.433度のベルデ島水路東南口で5隻の輸送船団を発見し、2隻の輸送船に対して魚雷を3本ずつ発射[41]。全速力で転舵ののち、三番目の目標に対してさらに魚雷を3本発射[42]。しかし、いずれの魚雷も命中した様子はなかった[42]。8月22日午後にも北緯12度54分 東経122度51分 / 北緯12.900度 東経122.850度の地点で2隻の輸送船を発見し、魚雷を6本発射したが命中しなかった[43]。9月22日、54日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
第7、第8の哨戒 1944年10月 - 1945年7月
[編集]10月21日、「ガンネル」は7回目の哨戒で「マスケランジ」 (USS Muskallunge, SS-262) とともにルソン島近海に向かった。11月8日未明、「ガンネル」は北緯16度09分 東経118度56分 / 北緯16.150度 東経118.933度のルソン島西方海上で、輸送船団と思しき複数の目標を探知し、やがて対潜掃討中の水雷艇「鷺」が攻撃圏内に入ってきた[44][45]。「ガンネル」は魚雷を3本発射し、うち1本が「鷺」に命中して撃沈した[46]。11月12日には、北緯17度13分 東経116度26分 / 北緯17.217度 東経116.433度の地点で「大和型戦艦」と「利根型重巡洋艦」を発見し、約4時間あまりにわたって追跡を行ったが、最終的には振り切られた[47]。11月16日夜、北緯16度30分 東経110度14分 / 北緯16.500度 東経110.233度のルソン島バタンガン岬北東230キロの地点でミ20船団を発見し接近の上、11月17日明け方に北緯16度56分 東経110度30分 / 北緯16.933度 東経110.500度の地点にいたったところで魚雷を6本発射し、2隻の目標に計5本が命中したと判断される[48]。反転して魚雷を3本発射したのち一時船団から離れ、北緯17度05分 東経110度42分 / 北緯17.083度 東経110.700度の地点で再度ミ20船団を迎え撃ち、魚雷を4本発射[49]。航空機を観測しつつなおも追撃し、午後に入って北緯17度36分 東経110度33分 / 北緯17.600度 東経110.550度の地点で艦首発射管に残った3本の魚雷を発射、1本の命中を確認した[50]。一連の攻撃で特設運送船「春天丸」(大同海運、5,623トン)と水雷艇「鵯」を撃沈した[51]。12月1日から2日にかけてはパナイ島の北西にあるマニグイン島に向かい、2カ月間の間現地ゲリラに保護されていた11名の海軍パイロットを収容し、代わりに武器弾薬を譲渡した[52]。12月17日から18日にかけてはサイパン島タナパグ港に寄港[53]。12月28日、65日間の行動を終えて真珠湾に帰投。ハンターズ・ポイント海軍造船所に回航されてオーバーホールに入った[6]。
1945年6月13日、「ガンネル」は8回目の哨戒で日本近海に向かった。7月9日10時20分ごろ、北緯32度40分 東経132度34分 / 北緯32.667度 東経132.567度の沖の島南方11浬地点付近の豊後水道で、回天特別攻撃隊(轟隊)に参加した後光へ帰投中の潜水艦「伊36」を発見し魚雷を4本発射したが、魚雷は外れて沖の島に命中し爆発した[54][55]。その後「ガンネル」は、日本本土を爆撃するB-29の乗員救助任務に当たった。7月27日、41日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投した[56]。翌7月28日に出港し、真珠湾には8月8日に到着して、そのまま終戦を迎えた[57]。
戦後
[編集]「ガンネル」は終戦後、ニューロンドンへの帰還を命じられ、1946年5月18日に退役する。その後は現役に戻ることがないまま1958年9月1日に除籍され、1959年8月1日にスクラップとして売却された。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 6月21日に沈没した特設砲艦「香港丸」(東亜海運、2,797トン)を「ガンネル」の戦果とする資料がある[14]。しかし、この日に「ガンネル」が攻撃を行った記録はない[15]。「ガンネル」が6月19日に損傷を与えて6月21日に沈没したという資料もあるが[16]、「香港丸」の被害報告の初出は6月21日である[17][18]。
出典
[編集]- ^ a b c #SS-253, USS GUNNELp.3
- ^ a b c #Friedman pp.285-304
- ^ a b c d e f g h i j #Bauer
- ^ a b c d e f #Friedmanpp.305-311
- ^ #SS-253, USS GUNNELp.157
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- ^ #SS-253, USS GUNNELp.25
- ^ a b #SS-253, USS GUNNELp.28,40
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- ^ #駒宮p.70
- ^ #SS-253, USS GUNNELp.32,40
- ^ #佐鎮1806pp.20-22
- ^ #Roscoe
- ^ #SS-253, USS GUNNELp.33-34
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- ^ #木俣空母pp.587-588
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- ^ #SS-253, USS GUNNELp.132,143
- ^ a b #Blair p.631
- ^ #SS-253, USS GUNNELp.146
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- ^ #一護1911p.7
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- ^ #一護1911p.58
- ^ #SS-253, USS GUNNELp.252, pp.295-304
- ^ #SS-253, USS GUNNELp.256
- ^ #特攻回天戦p.261
- ^ #SS-253, USS GUNNELpp.324-325, pp.337-338
- ^ #SS-253, USS GUNNELpp.333-334
- ^ #SS-253, USS GUNNELp.334
参考文献
[編集]- (issuu) SS-253, USS GUNNEL. Historic Naval Ships Association
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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- Ref.C08030373200『自昭和十八年六月一日至昭和十八年六月三十日 佐世保防備戦隊戦時日誌』。
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- Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3
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- 大塚好古「米海軍「艦隊型潜水艦」の完成型シリーズ」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ63 徹底比較 日米潜水艦』学習研究社、2008年、149-155頁。ISBN 978-4-05-605004-2。
外部リンク
[編集]- navsource.org
- Gunnel tribute website
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。 記事はここで閲覧できます。