日本の地名は、漢字2文字で書き表されるケースが非常に多い。
例えば、北海道以外の都府県を見ると、神奈川、和歌山、鹿児島以外はすべて漢字2文字だ。これは、なぜなのだろうか。古代、日本の地名の文字数はバラバラだったが、8世紀初頭に突然、2文字に揃えられたのである。
平城京に都が遷されて間もない和銅6(713)年、律令政府は各国に以下のようなお触れを出した。
「諸国の郡名、里名を、好い字の二文字に改めて定着させよ」
これが、「好字二字化令」と呼ばれるものだ。
当時の日本が手本にしていたのは、世界最高の先進国である唐だった。そのため、朝廷は遣唐使を差し向け、唐のシステムを貪欲に吸収していた。「何事も唐に倣え」というのが、当時の日本のスタンダードだったのだ。
そうした事情から、地名についても唐と同じように漢字2文字を選んで表記することになった。つまり、地名に漢字2文字が多いのは、古代日本の国家方針だったわけだ。
10世紀初頭に成立した『和名類聚抄』という史料には、当時の国名が記載されている。これを見ると、すべての国名が漢字2文字で揃えられている。国の下に位置する郡についても、例外は薩摩国の鹿児島郡ひとつだけという徹底ぶりだ。
おそらく、表記のバラつきを嫌った中央の役人が、各地の国司に厳命したのだろう。今も昔も、役人というのは杓子定規に事を運びたがるものだ。
好字二字化令は、戸籍の作成には便利だったと思われる。しかし、それまでバラバラの文字数で表記されていた地名がいきなり2文字にされたため、無理も生じた。例えば、3文字以上で表記されていた「波伯吉国」は「伯耆国(ほうきのくに)」となり、「吉備道中国」は「備中国」に改められた。
逆に、1文字を2文字にした例も多い。「粟国」は「阿波国」に、「木国」は「紀伊国」に、「泉国」は「和泉国」となった。こういった2文字化が、現代に残る難読地名の源泉になったことは、間違いないだろう。
現代の「武蔵」は「胸刺」だった?
ところで、筆者は生まれも育ちも、そして現在も埼玉県に住み続けている生粋の埼玉県民だ。当地は、奈良時代から明治時代初期まで、ずっと「ムサシ」と呼ばれていた。現代の「武蔵」は、埼玉と東京都の一部、それに神奈川県の川崎市と横浜市の大部分を含む広大な地域を指す。
この「ムサシ」も、かつては表記や文字数がバラバラだった。飛鳥京や藤原京跡から出土した木簡には「无耶志」「无射志」「胸刺」などと書かれたものもある。「武蔵」の2文字に落ち着くまでに、さまざまな漢字が使われてきたのだろう。
個人的には、「胸刺」という表記などは、ロマンチックな響きで面白いと思うのだが、いかがだろうか?
(文=青木康洋/歴史ライター)