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アメリカ大統領選
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前回、北村紗衣先生の連載をきっかけに『ダーティハリー』を見ておもしろかったので、『猿の惑星』も見てみました。 ええっと、まず最初に断わっておきたいのですが、私は猿はあんまり好きじゃなくて、というのも数年前に自宅の近辺で猿に襲われそうになったことがあるからです。住んでる借家が大きなお寺の広いほぼ敷地内にあって、そこは京都の東山連峰と林でつながってるんですね。それでそのころ猿が降りてきてたんです(最近はイノシシも来てるらしい)。んで、通勤路で一匹の猿と目があってしまって、やばいとは思ったけど目が離せなくなってしまったら、「ガーっ!」って脅かされたんですわ。とても怖かった。そういや嵐山のサル山でもサルに襲われそうになったことがあるし。猿怖いですね。とにかく猿には悪い印象があります。そういうわけで、『猿の惑星』のすてきな人たちについては、猿じゃなくてエイプと呼ぶことにします1。 さて、『猿の惑星』
8月下旬に、北村紗衣先生の『ダーティハリー』(ダーティーハリーではない)のweb批評あるいは「感想」が話題になって、局所的に私にはおもしろい議論になっていました。私の最初の印象は「なんかたしかにポイントはずしてる感じの映画批評だなあ」だったみたいです(ツイッタに書いてた)。 でも私は映画は人生でほとんど見てこなかったし、「批評」っていうものがどうあるべきかもわからないし、そもそも『ダーティハリー』も見てないのでなにも言うべきことはなかったのですが、その後『ダーティハリー』を1回だけ見たので1その「ポイントはずしている感じ」がどこに由来していたのか考えてみたいです。 北村先生のこの連載は、「映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために」、なにか言えるようになれるような見本を示す、ってものだと理解しています。なにか「よかった」「つまらない」以上のこと
京都女子大学現代社会学部が発行している基礎演習用のテキスト『京女で学ぶ現代社会』の1章です(一部省略しています)。PDFはResearchmapにあげています。 → https://researchmap.jp/eguchi_satoshi/misc/46018319 時おり、新聞やテレビニュースで大学研究者(教員)の「研究不正」が話題になります。大学などでの研究者が、研究データを捏造(ねつぞう)1したり改竄(かいざん)したりすると大きなニュースになりますが、より頻繁におこなわれているのは「盗用」(剽窃(ひょうせつ))です。盗用・剽窃(plagiarism プレイジャリズム)はアカデミックな世界では非常に重大な犯罪です2。大学学生の授業レポートや卒論でも場合によっては単位の不認定、取り消しなどにつながることがあります3 多くの大学新入生は、中高生のときに「著作権」についてすでに耳にしたこと
(このエントリ、編集ファイルのバージョン混乱してしまっておかしくなってるかもしれません) 最近、私のツイッターやブログでの発言についてまたある方(Aさん)[1] … Continue readingという方からいろいろ御批判を受けているらしいです。まあいろいろいい加減なことを言っているので御批判を受けてしまうのはしょうがないのですが、なかでちょっと印象的なことがありました。 Aさんは、私の(そして他の人々の)発言の一貫性のようなものに関心があるらしく(もちろん私の憶測です)、これは正当なことだと思います。ただちょっと私にはAさんが何を指摘しているのかわかりにくいことが多い。これは私の理解力が不足しているのが主な原因ですが、会話や討論みたいなのをする際の相性みたいなのもあるんですよね。またちょっと好意的でない解釈をされているように感じることも多い。だからAさんには「私の発言についてブログのコ
というわけで、『トランスジェンダー入門』には「なるほどな」と思わされることが多くて勉強になります。ちょっとだけコメントをいくつか書いておきたいと思います。 「身体の性」vs「心の性」という分け方はよろしくない、ということを論じている部分にこういう一節があります。 私たちは、相手の身体のなかから「性的な特徴」とされるものを漠然と選びだし、髪が長いから女性だろうとか、背が高いから男性だろうとか、声が高いから女性だろうとか、そういった仕方で「身体の性」を捉えているのです。だからこそ、そうして推測された 性別 が当人の 実態 とは異なることもあります。(p.30、強調は江口) 問題は、引用で強調した「性別」と「実態」が何を指すかです。ここらへんもトランスジェンダー論だけでなく、ジェンダー論で一般読者にはわかりにくいところだと思うんですよね。 私の内的な感覚では、たしかに私たちはいろんな特徴から人間
「トランスジェンダー」の「定義」についてSNSその他はずっとモメていて、私にはよくわからないところが多くてこれまで何も書いてなかったんですが、そろそろ勉強しないとならない感じで、前期しばらく文献めくったりしていました。考えをまとめるために下のような落書きしてたんですわ。 定義は言葉の意味をはっきりさせ、またその言葉の範囲を定めることです。なにかをうまく論じようとする場合には(それが自明でなければ)必ずおこなわねばなりません。だって、なんの話をしているかわからないままに議論を進めても、読者や聴衆にはなにが論じられているかはっきりわからないですからね。 前にこのブログで書いたように、そうした定義には下のようにいくつかの種類があります。この分類というか特徴づけは、主にその目的や機能のちがいによるものです。ただし、それらは排他的なものではありません。つまり、一つに属するものが、他のものには属さない
私、ツイッタでもこのブログでも、いろいろ人様の研究(論文・書籍)やブログ記事やSNS投稿に文句をつけることが多くて、ほんとうにもうしわけないと思っているのですが、でもそうしなきゃならないというのは本当につらいのです。おそらく多くの人が、江口はまともな業績もないのに、悪口ばっかり言ってると思っていて、私もそう思っていて恥ずかしいのですが、でもやっぱり書かないとならないことはあると思うのです。フェミニズムやジェンダー研究に関心があったので、そういう研究にコメントつけることが多くてアンチフェミニストだって思われてるかもしれないけど、そうではないのです。でもそうした研究のまわりには問題が多いと思う。これだけはわかってほしい。 この前もある先生が、『射精責任』の著者がモルモンであることを問題視していて、それに関して当の書籍を読んだりしてコメントしました。 なかでも苦しかったのが、『射精責任』の著者の
キャッチーなタイトルのガブリエル・ブレアさんの『射精責任』ですが、内容的には「避妊しましょう、特にコンドームで避妊しましょう、妊娠を望んでいないのに避妊しないセックスは無責任です」という話で、まあごく普通の話で新しいアイディアは何も含んでいないと思います。性教育にはよいと思うので、学校やら会社やら喫茶店やら、そこらへんの人目に触れるところに置いといて読んでもらったらいいんじゃないでしょうか。 ちょっと検討してみたいのが社会学者の齋藤圭介さんによる解説で、これは著者紹介に加え、アメリカの中絶論争史と、日本の避妊・中絶の現状、そして本書の論点・争点の簡単な検討などが含まれていて、読みごたえがある立派なものです。立派だとは思うのですが、いつものように、気になる点をいくつか指摘しておきたい。 第2節[1]第2「章」になってるけどこれくらいの分量で「章」っておかしいと思うの「アメリカの中絶をめぐる歴
んで、「日本の避妊・中絶をめぐる歴史と現状」なんですが、ここがちょっと気になるところがあった。 堕胎罪と母体保護法の紹介はOK。母体保護法のもとになった優生保護法の話もしてほしかったけど、まあスペースの関係で難しかったかもしれないですね。 「そもそも望まない妊娠をしないためには、男性による無責任な射精を正面から議論の遡上にのせる必要があるのだという話はついぞ聞いたことがない」(p.198)は齋藤先生が若い先生(じゃなくて中堅)だからしょうがないかと思うのですが、日本の生命倫理学者のあいだではわりと有名な論文があって、日本の生命倫理学を牽引してきた森岡正博先生やその周辺の先生たちが熱心にやってた時期があるのです。まああんまり知られてなくてもしょうがない[1]あれ、これは注19にあった。本文にしましょうよ。ていうか「ついぞ聞���たことがない」って書きながらこういう注つけてるのなんですか。。(あと
前のエントリではちょっとミル『自由論』の話して、出典の話で終ってしまったのですが、それではあんまり失礼かもしれないので、論文の内容にも少しコメントしておきたいと思います。 私が見るところでは、五野井論文は以下のような構成になっています。 不買運動などのボイコット運動は正当な民主主義運動ですし、それはツイッターでのハッシュタグ運動などに発展しています。(前回触れたミル解釈はここで出てくる)ボイコット運動の延長としてキャンセルカルチャー=コールアウトカルチャーを説明します。ハッシュタグアクティビズム、ノープラットフォーミングなどを紹介します。その問題点は恣意的になりやすいこと、いつ「キャンセル」が終るかわからないことなどです。キャンセルされた有名事例を列挙します。トマス・ポッゲ、ピーター・シンガー、J.K.ローリング、リチャード・ドーキンス、チャールズ・マレー、スティーブン・ピンカー、V.S.
毎日新聞での「キャンセルカルチャー」擁護記事で五野井郁夫先生という方が話題になっていたので、その記事の元ネタらしき『世界』2023年6月号の五野井郁夫「キャンセルカルチャーはデモクラシーを窒息させるのか」という論文をめくってみました。『世界』とかのいわゆる論壇・総合雑誌に載ってる文章こそ「論文」だっていう感じがありますよね。重大な社会的問題を論じるのだ!って感じ。 さてこの文章いろいろ問題があると思いました。いちいち書けないのですが、奴隷商エドワード・コルストンやレオポルド二世の像なんかが「21世紀の公共空間には不要」で「芸術的価値や資料的価値をことさらに強調したいのであれば、人目につかない倉庫で保管すればよいだけの話」であり、「大っぴらに他者を傷つけたいとの願望は自身の脳内に収めて」おけ、といった文章には驚きましたが、それより次の文章ですね。 思想信条の自由とは、J・S・ミルが『自由論』
前のエントリ「ヘイトスピーチや悪口を分類しよう」の補足ですが、「ヘイトスピーチを分類しよう」ってんですが、んじゃそもそも「ヘイトスピーチ」の定義はどうなってるのか、と気になる人がいるかもしれません。それはとてもよいことです。Yong先生がそこらへんをどう扱っているかはとても参考になります。 このブログでは、前からいくつかのエントリで定義定義定義が大事です、みたいなことを主張しているわけですが、「ヘイトスピーチ」の定義自体がむずかしそうです。どうしたらいいのか。 Yong先生はまずこんなこと言います。 「ヘイトスピーチ」は、広い名称として、他人たちを、人種、国籍、宗教、ジェンダー、性的指向、その他なんらかのグループのメンバーであるという理由から他人を攻撃するスピーチだ。そしてそのグループに所属しているこことは道徳的には恣意的に区別する特徴である」 これは、だいたい辞書的な定義といってよいと思
言論の自由と悪口の関係については興味があって、昨日Yongという先生の「言論の自由はヘイトスピーチも含むか」っていう論文(Yong, C. (2011) “Does Freedom of Speech Include Hate Speech?,” Res publica , 17(4))読んでたんですが、ヘイトスピーチでありえるものを分類してて興味深かったです。 先生によれば、ヘイトスピーチと呼ばれるやつは最低四つぐらいのカテゴリに分けられて、「言論の自由」にもとづいた法的な対応なんかはそのカテゴリを意識して考えられるべきだそうです。 四つっていうのは (1) targeted vilification、(2) diffuse vilification、(3) organized political advocacy for exlusionary and/or eliminationis
社会学とかの文献を見ていると、「関係性」とか「親密性」っていう言葉をよく見かけるわけですが、これは曖昧な言葉なので注意しましょう。 日本語で「〜性」という語尾の言葉を見ると、「具体性」(具体的であること、具体的であるという性質)とか「可能性」(可能である性質)とかっていうごく抽象的な 性質 を指す言葉として使われているわけです。そのつもりで「関係性」とか「親密性」とかを見ると、「関係があるという性質」「親密であるという性質」を指していると勘違いしやすいのですが、社会学とかの文脈で使われる「関係性」や「親密性」は性質では なく 、具体的な 関係そのもの 、親密な関係 ≒ 内緒話をしたりセックスするような関係を指すことも多いようです。そういう場合は「関係性」「親密性」ではなく、「関係」「親密関係」のように表現した方がずっとわかりやすいはずです。 私見によれば、これそもそももともとは 誤訳に近い
https://yonosuke.net/eguchi/archives/15710 に続いて、また清水先生の講演の問題点に戻ってしまうんですが(しつこいけどいやがらせではない)。ちょっと「学問の自由」と「キャンセルカルチャー」の定義を見てみたい。 「 キャンセルカルチャー 」ですが、英語版のWikipediaだとこうなってますね。 https://en.wikipedia.org/wiki/Cancel_culture Cancel culture or call-out culture is a phrase contemporary to the late 2010s and early 2020s used to refer to a form of ostracism in which someone is thrust out of social or professional
言論の自由とかキャンセルカルチャーとかには職業がらどうしても関心をもたずにはいられないので、「フェミ科研と学問の自由」シンポジウムでの清水晶子先生の「学問の��由とキャンセルカルチャー」を見ました。この講演は私はいろいろ問題あると思います。 書き起こしはここにあります。 https://anond.hatelabo.jp/20220805225632 https://note.com/philo_radi/n/ne2da785c938c#67021145-cdee-46f0-adab-d18dcf74099f まず全体の構成を見ると、 「学問の自由」の理念を確認いくつかの国内での学問への政治的圧力を確認しかし「学問の自由が濫用される」ことがあることを指摘「キャンセルカルチャー」が反ポリコレの流れのなかで生まれてきた言葉であることを確認父ブッシュ大統領が言論の自由を擁護し、ポリコレの動きに警戒
辞書的定義というのは、人びとがその言葉をどう使っているかを国語辞典の乗ってるような形で説明することです。たとえば「男性」の定義はコトバンク(大辞泉)ではこんな感じですね。基本的には「おとこ」なんですが、成年の男子」が基本だそうです。 まあそういう多義的な語があるので定義が必要になる場合もあるわけです。っていうかけっこう重要。 ところで、この「男性」の場合は男性ってなんだっていったら「おとこ」だとか「男子」だとかで、さらに「おとこ」ってなんだって辞書ひくと男子だとか男性だとか出てきてしまって循環してしまってます。「男子」か「男性」か「おとこ」かどれかの言葉を知らないとけっきょくそれがなんのかわからない。まあこれは「男性」だとか「おとこ」だとかっていうののどれかはわかってることを前提に辞書っていうのがつくられているからですね。 辞書では基本的な単語についてはこんなふうに循環してしまうことはよく
ジェンダーまわりの議論というのは、論文よりもツイッターのようなSNSやブログでなんか議論されていることが多くて、どうしてもそういうのを見ないわけにはいかないのですが、ここ数年トランスジェンダーまわりが激しいやりとりがつづいていて、興味もたずにはいられません。 トランスジェンダー(トランス)まわりは、当事者じゃない人間がそれについてコメントするのさえなにか不道徳なところがある、という判断もあるようで、私のようなものが口を出すのははばかられてずっとコメントなにもしないままだったのですが、最近「トランスジェンダーに関して卒論を書きたい」というような話を聞くようになって困ってるんですよね。いまんところ、「私はよくわからないのでそれはおすすめしません、文献も私が読んで理解できるものはあんまりありません」みたいな答になってしまいます。 国内ではとくに千田有紀先生が問題提起をしているようですね。そしてツ
この前千田有紀先生の文章にコメントしたので、それが批判(?)している清水晶子先生の「埋没した棘」っていう論文も読んでみたのですが、これは千田先生のやつに輪をかけて難しい、というより私にはほとんど理解できませんね。こういうの読まないとならない学生様院生様たちはどうしてるんだろう? たとえば、こんな感じです。 諸身体の生存可能性がその集合的な現れによって切り開かれるのだとすれば、その生存は、現れ集合する身体の均一性に、どれほど依拠しているのだろうか。現れうる差異、集いうる身体の集合への注目は、現れることのより困難な諸差異、集うことのより困難な諸身体と、どこまで連帯し、どこまでそれらの諸差異・諸身体の黙殺を要求しているのだろうか。(p.36) これはキビしい。ちょっと何言ってんのかわかりませんね。おそらく次みたいな感じ。 体をもった生身の人間は生きていくには、人間どうしの協力が必要です。さらに、
前にも書いたんですが、学生様に倫理学の入門書ガイドを出す必要があって作ってみました。あんまりよい本がない…… ジェームズ・��イチェルズ『現実を見つめる道徳哲学』。お勧め。これ一冊で倫理学入門卒業も可。 しかし読みきるのはけっこう骨なので、同時に数冊読む必要があるかもしれない。柘植尚則『プレップ倫理学』。超初歩。レイチェルズ読む前に。児玉聡『功利主義入門』。倫理学がなんであるのかというのはこういうのの方がわかりやすいかもしれない。品川哲彦『倫理学入門』。よい入門だが、ちょっとクセがある。ジュリアン・バジーニ『ビッグクエスチョンズ・倫理』。まあ入門。『倫理学の道具箱』。事典みたいに読む。サンデル『これからの正義の話をしよう』。定番。エドモンズ『太った男を殺しますか?』。トロッコ問題に興味ある人に。ジョナサン・ハイト『しあわせ仮説』、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』。倫理学というよりは道徳心理
この本はとてもおもしろい論文がのってるので、ポルノと哲学に興味ある人びとはぜひ読むべきだと思う。反ポルノ、ポルノ擁護、どちらも力がはいってます。 そのなかに、Jacob M. Held & Nina Hartley, “Porn, Sex, and Liberty”っていうのがあって、これは、Held先生は男性だけどフェミニズムに詳しい哲学者、Hartley先生は(元)ポルノ女優で、そのふたりのインタビューをフィクション対話にしたもので、(ポルノ擁護側の)ポルノ論争FAQみたいになってる。おもしろいのでポイントだけ紹介。超訳でさえない。ツイッタにメモしたのをまとめただけです。訳というか読解、まちがってるところあると思う。もし翻訳できるチャンスがあればやりたいけど、こういうの出版するのはむずかしいのよね。 フェミニスト大学教授のComstockさん、以下[C]: ポルノは性差別。女性の公民権
てなわけで、「たわわ」広告についてちょっと見てみたんですが、イギリスの広告基準協会やアンステレオタイプアライアンスの基準や倫理綱領みたいなのを使ってあの広告を非難するのは私には難しそうに見えます。広告と製品・作品は別のものです。作品を非難したいのであれば作品自体を非難した方がよいと思う。これは表現の規制というよりはまずは批評の話になるので、ぜひ読んで批評したらよいと思います。電車のなかにいる真面目そうに見える青年の内面がさまざまな欲望に満ちてる、みたいなのはキモいとは思いますが、それはそれで表現だ。 しかし、広告が、イギリスや国連女性機関の提唱している「精神」みたいなものに 十分にそってない 、みたいなことはもしかしたら言えるかもしれない。ここで注意しないとならんのは、理想みたいなものについては、その実現に努力するのは称賛されるべきことであっても、十分にその理想に貢献していないからといって
続き。 ハフィントンポスト「「月曜日のたわわ」全面広告を日経新聞が掲載。専門家が指摘する3つの問題点とは?」 https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_624f8d37e4b066ecde03f5b7 というわけで「ジェンダーステレオタイプ」や「不快」の話をもってくるのはなかなか微妙でうまくいくかどうかわかりません。私はあんまりうまくいかないと思う。 治部先生がイギリスの広告基準協会のガイドのなかで参照するべきだったのは(そして参照したかったのは)、女性のモノ化や児童のセクシー化にかかわるガイドだったと思います。 広告基準協会は、ここまでとりあげた基準・綱領(Code of Principles)の他に、執行部からの「アドバイス」を提供してるんですね。これは法的助言でも協会のルールでもなく、あくまで「アドバイス」であるということらしいです。事
ハフィントンポスト「「月曜日のたわわ」全面広告を日経新聞が掲載。専門家が指摘する3つの問題点とは?」 https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_624f8d37e4b066ecde03f5b7 「イギリスでは2019年から広告標準化協会が「性別にもとづく有害なステレオタイプ」を使った広告を禁止している」という話なんですが、これがどういうものか、っていうのが気になりますよね。 広告標準化協会(「標準化」が「画一化」みたいな印象で気になるので、以後「広告基準協会」にします)、Advertisement Standards Authority, ASAはイギリスの広告業界の自主規制団体ですね。詳しいことはわかりませんが、政府とは独立ですが、広告業界として会社からお金を集めて、協会員の広告に関する基準Standard・守るべき綱領Codeを作ったり、
『月曜日のたわわ』という青年マンガの広告が日経新聞に一面で掲載されたらしく、それについての議論が炎上しているようです。特にハフポストの以下の記事が焦点になってますね。すでに論評がいろいろ出ているのでそれに加えて私が書くべきことはそんなにないのですが、発見もあったのでちょっとだけ。今日は前おきだけ。 ハフィントンポスト「「月曜日のたわわ」全面広告を日経新聞が掲載。専門家が指摘する3つの問題点とは?」 https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_624f8d37e4b066ecde03f5b7 これの一つ目の問題の「見たくない表現に触れない権利」ですが、これは法的な権利ではなくまあ道徳的な権利としてはありだと思います。我々は不快なものを見たくないので、たとえば公の場で誰かが多くの人が見て不快に思う行為をしていたら警察につかまえてもらうようにしていま
高校生・大学生向けの新書シリーズのちくまプリマー新書は自分自身好きだし学生様に読んでもらおうと思っていろいろめくっています。 このまえ、教育社会学の本田由紀先生の『「日本」ってどんな国?』をめくってみる機会があったのですが、ちくまプリマーとしてはけっこう問題があると思ったのでメモを残しておきます。 この本、日本を海外といろんな尺度で比較してその実際の姿を冷静に見よう、って本だと思うのですが、先生の結論は「日本は相当やばい国だ」ってものらしいです。まあそういう見方をすることは可能かもしれませんが、本当かなあ?というより、「やばい国だ」「だめな国だ」っていう指摘をするデータはちゃんとしているだろうか? まあ私も一応ジェンダー問題に関心があるので家族やジェンダーから見るわけですが、やっぱり世界経済フォーラムの「ジェンダー格差指数」が出てくる。「160ヵ国中120位だ!ひどい国だ!」ってやつですね
最近、SNSで話題になっている「女性差別的な文化を脱するために」というオープンレターなんですが、これ、発表時のときからなかなか読みにくいところがあると思っていた文章で、今回も何十回も読んでしまいました。どこがわかりにくかったのかメモしておきます。 ツイッターでの日本語圏での(悪しき)「コミュニケーション様式」についての指摘については興味深い論点だと思いますが、それとは別に、いくつか気になる文言がある。 「距離を取る」ということで実際に何ができるかは、人によって異なってよいと考えます。中傷や差別的言動を「遊び」としておこなうことに参加しない、というのはそのミニマムです。そうした発言を見かけたら「傍観者にならない」というのは少し積極的な選択になるでしょう。中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない、というさらに積極的な選択もありうるかもしれません。 この「同じ場では仕事をしない」というのは最
なんか、ある学者先生が「セレブバイト」っていうすごい言葉を開発したのに対応して、どういうわけかその先生が言及していない「トロフィーワイフ」っていう言葉がバズってたみたいです1。「セレブバイト」もたいへんやばい感じですが、「トロフィーワイフ」も学者先生たちが使うにはどうなんだろう、という意味合いがあるんじゃないかと思っているので、私もしばらく観察していました。 トロフィーワイフっていう言葉はそんな古いものではないようですね。1970年代から、よく使われるようになったのは1980年代からかもしれません。 Wikipedia (en)だと”A trophy wife is a wife who is regarded as a status symbol for the husband. The term is often used in a derogatory or disparaging
ジャズはインチキに簡単なことをするにもいちおう理論勉強しないとならんので面倒なのですが、音楽好きで本好きな人間は理論書や教則本も集めてしまうわけです。馬鹿ですね。そんな時間があれば練習すればいいのに。んでどれを読んで練習するかという話になるわけですが。 英語読めるひとはこれが最強だと思う。なんでも書いてある。読むだけでも楽しい(ただしドロップ2のところだけはわかりにくい)。ただし11がIIと表記されているのが腹たつ。なんで数字ぐらいまともに表記できないのだ。(なんか安いKindleの本は海賊版?)
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