2020.11.04
「この世界は生きるに値する」――3度目の骨髄移植を前にして
デザイナーの黒田朋子さんは、骨髄移植を2度も経験し、そして現在、3度目の再発と闘おうとしている。その闘いの原動力となったものはなんだろうか。
インタビューを通して、現在さまざまな苦悩を抱える私たちが今を生きるヒントをうかがった。
命を分けてくれたドナーへの恩返し
――急性骨髄性白血病を発症してから受けられた治療の経緯や、その間の気持ちの変遷についてうかがえますか。
2011年5月、32歳の夏に、急性骨髄性白血病と診断されました。フリーランスとして独立し、結婚して2年、少しずつ自分のペースで仕事ができるようになり、夫婦二人の家庭を築き始めた頃のことでした。
予想もしない診断に混乱する頭の上を、当時の主治医の説明が矢継ぎ早に通り過ぎました。自身の気持ちに向き合う間もなく、治療に関する説明と同意書のサインなどの事務手続きがどんどん進められていきました。私も家族も、さまざまな不安や行き場のない気持ちを抱えたまま、白血病との日々がいつの間にかはじまってしまったという感じでした。
最初の抗がん剤投与が終わる頃、少し冷静になって、まずは「白血病」という病気について調べました。医学論文をはじめ、闘病ブログやSNSなどを読み漁るうち、自分と同年代らしい女性たちの多くが「子どもを授かることができない未来」を悲観していることを知りました。そこで、改めて抗がん剤治療に関する同意書を読み直しました。
そこで、数々の副作用一覧の末尾に「不妊」という文字を発見しました。ショックと新たな絶望に打ちひしがれている私に、当時の主治医が言い放った言葉が今も忘れられません。「(子供が授かれなくても)生きられるからいいじゃないですか」と。そのとき、「ああ、もう私は、生きられるということ以上に、自分の人生に何かを求めてはいけないのだ」と、行き場のない怒りをどこにぶつければ良いのかもわからず、やりきれない思いでいっぱいになりました。
抗がん剤治療を経て、骨髄バンクからのドナー(骨髄提供者)選定が決まりました。かなり強い抗がん剤治療でも寛解(がん細胞が減少している状態)には至らず、むしろ私の中の白血病細胞は勢いを増していました。非寛解での移植の予後が良くないことは知っていましたが、様々な要件が重なり、2012年3月に骨髄移植を受けました。
思いのほか、治療は順調に進みました。ところが、退院の話が出てきた頃に、胃腸の不調を感じるようになりました。明らかに下痢の回数が増えているし、常に体のどこかしらが痛い。本当にこれで退院して大丈夫なのか。血液内科部長の先生にも尋ねましたが、移植後にいろいろ不調が出ることはよくあるので、それらは外来で診ていきましょうということでした。その言葉を信じて、退院することになりました。
悪い予感は当たるもので、家に帰ると、みるみる状況は悪化しました。ずっとお腹が痛くて、何も食べられないどころか、トイレへ行くにも匍匐前進のようなスタイルでないと進めないくらいにまで衰弱していました。これは明らかにおかしいと思い、1週間後と言われていた外来の前に、病院に行きました。検査の結果は「全身の臓器が浮腫んでいる」ということと「胃や腸の粘膜が剥がれ落ちている」ということでした。即時再入院になりました。
そこから半年ほど、毎日2リットルを越す液体が肛門から流れ出る日々でした。大腸、小腸全体と胃の一部の粘膜がむきだしになって、水はおろか自分の唾液を飲み込んでも激痛が走りました。重度のGVHD(骨髄移植後の合併症のひとつ)でした。大量のモルヒネを投与され、強いせん妄状態に陥って、夫が傍にいても誰なのか認識できなくなりました。
そのほかにも、大小さまざまなトラブルが重なり、何度も生死の淵を彷徨いました。この世に私をつなぎとめてくれたのは、夫や家族、たくさんの友人、そして何よりドナーさんの力だと思っています。退院しても自由にならない身体ではありましたが、この経験は必ず社会に還元すべきだという思いが自然と湧いてきました。そしてそれこそが、無償の愛で私にいのちの一片を分け与えてくださったドナーさんへの最良の恩返しになるとも考えるようになりました。
主治医や医療体制への不信が重なっていたこともあり、まず転院をして、本当に信頼できる医師と一緒に生活や健康状態を立て直し、今後のことを考えていきたいと思っていたときに、今の主治医と出会いました。
――その後、再発し、2回目の骨髄移植を受けられました。
2度目の再発が分かったとき、正直遺書を書こうと考えました。そして、自分が自分としてあれるうちに、感謝を伝えるための生前葬をしたいとも思いました。
骨髄移植は、「最強の化学療法」とも言われます。移植前の処置で、12Gy(グレイ)という大量の放射線を全身に浴びます。人間が生涯に浴びられる放射線量は15Gyだと、そのときに言われました。抗がん剤も、心電図をつけて24時間投与する方法で、ほぼ致死量を入れています。そこまでの治療を受けてなお、私の中で白血病細胞が生き続けているというのは、途方もない絶望でした。
それでも、信頼できる主治医の言葉を素直に受け止め、診立ててくださる方針で治療を進めようと思うことができました。
苦境を何度も共にしてきた私の中に流れるドナーさんにお別れを告げて、新しいドナーさんを迎え入れねばならないことは遺憾の極みでしたが、「今、再度移植をすることでこの病気を乗り越えていくことができる、そう信じている」という先生の言葉は、その迷いを払拭してくれました。
とはいえ初回の移植後が地獄絵図であっただけに、容易に受け入れられる提案でないことも事実でした。「よしやろう」と思うまでに、かなり迷い、苦しみ、何度も何度も同じ問いを先生に投げかけ、何度も何度もその答えを反芻してはまた吐き出す、ということを繰り返しました。
「今はさらにいろいろと良い薬も出てきているし、大丈夫。できる」最後の最後、先生が強い気持ちを持って掛けてくれたこの言葉が、私の背中の最後の一押しをしました。
2度目の骨髄移植では、大きなGVHDを引き起こすこともなく、移植から2ヶ月で無事に退院することができました。
ものを生み出す「ワクワク」を学ぶ
――病気を発症する前のお話をお聞かせください。学生時代、どのような将来の目標をお持ちでしたか。
子供の頃は、とにかく箱が大好きでした。より正方形に近くて、ある程度の深みがあり、しっかりとした紙でできているきれいな箱を、大事に集めていました。
父が、結婚式に出席してバウムクーヘンをもらってくることがありました。そのバウムクーヘンの箱が、自分の中では最上級の「上もの」でした。その箱に間仕切りを作ってビー玉を転がす迷路を作ったり、当時憧れの的だった「シルバニアファミリー」のお人形が住める家を作ったり。
おもちゃを買ってもらえなかったので、箱とあらゆる身の回りの道具(おりがみ、小さなチラシの切れ端、ビー玉、お菓子を結んでる紐、等々)をどう組み合わせれば、自分の欲しいものを作ることができるのか、毎日実験ばかりしている子供でした。そんな「無いものを作る毎日」が、のちのものづくり人生につながっていった気がします。
将来は芸術の道に進みたかったのですが、「箱が好き」と「ものづくりが好き」、大好きな2つをかけあわせたところのように思い、建築学科に進みました。日本に古くから残る多様な建築様式や、生活の中の工夫を取り入れた建築が作れるような建築家になりたいと憧れるようになりました。
でも、次第に、あまりにアカデミックな建築界の仕組みに嫌気がさしてきたんです。そして、「もっと手触りのあるものを作りたい」「自分の手で生み出せるものを生み出したい」という思いが強くなって、芸術系の大学院に進みました。そのあたりから、デザインという新たな道具でジャンルの垣根を超えて、なんでも作れる人になりたい、どんなことにも挑戦したいという気持ちが芽生えた気がします。
――卒業後、印象に残った出来事はありますか。
30歳でフリーランスデザイナーになるまでは、デザイン事務所で毎日朝9時から夜中の3時4時まで働いていました。土日も祝日がないことも多く、デザインという仕事に没頭する日々でした。
私生活では、後に夫となる人と生活を共にはしていましたが、平日どころか休日も私が家にいられる時間はわずかで、いわゆるすれ違いの状態でした。とはいえ、彼も元々はデザイナーとしてキャリアを重ねていたこともあってか、私が仕事に没頭することを、どこかで理解してくれていたように思います。
働いていたのは、フランス人デザイナーのグエナエル・ニコラ氏率いる「キュリオシティ」というデザイン事務所でした。ここで、私は、デザイナーとしての血や肉になる経験や体験を、語り尽くせないほどたくさん得ることができました。
ニコラ氏は、インテリアデザインに軸足を置きながらも、まさにキュリオシティ(好奇心)の向くままに何でも取り込んで、自分のアウトプットに変えてしまう方でした。それを誰かにプレゼントするんだ、という思いで、いつもワクワクすることを考えている彼に、私はとても刺激を受けました。
ニコラ氏のプレゼンテーションは、必ず箱に収められていたんです。「プレゼン」は「プレゼント」なのだから、箱に入っていなければならない。そして、プレゼントの箱の一つひとつに、開ける人の「WOW !!」が詰まっていなければならない。どうしたら、デザインを依頼してくれた人が「WOW !!」を受け取ってくれるのかは、相手がどんなプレゼントをもらったら喜ぶだろうかと考えることなんだ、と。プレゼンテーションを箱に詰めることには、そんな彼の教えが込められていました。
相手が喜ぶ顔を想像しながら、自分自身をワクワクさせながら、物を生み出すこと。私は、デザインの実践の中で、その後の人生の在り方さえも変えるエッセンスを、彼の下でたくさん学ぶことができました。それは、かけがえのない濃密な時間でした。
――その後、事務所からフリーランスとして独立なさった後のことをうかがえますか。
キュリオシティでの日々はとても充実したものでしたが、30歳を迎える年に、次の10年を考えました。それまでに積み上げた知識・経験・掴みかけたまだ言葉にならない原石のような目標を胸に、自分の力で世の中ともっとダイレクトに挑んでみたいと思い、フリーランスになりました。ちょうど同じ年、彼と、4年弱の交際を経て結婚しました。こうして、20代とは違う次のステージへ、公私共に進みはじめました。
とはいえ、何か後ろ盾があったり、すでにお仕事をいただける確約があったりしてはじめたことではありませんでした。ましてや、いわゆる営業ということも不慣れかつ苦手でした。とっかかりを掴むまでは大変かなと思っていましたが、デザイン事務所時代に関わった方たちから、すぐに様々なご依頼をいただけるようになりました。いただけるお仕事はなんでもやっていくというスタイルで、あっという間に1年、2年という月日が過ぎました。
フリーランスは定期収入がないので、収入は月によってアップダウンがありました。それもすべて自分の裁量次第ですし、日々挑戦すればするだけ、良いも悪いもダイレクトに評価が届きました。その評価を受けて、また新しいご提案ができることに、喜びを見出していきました。
ニコラ氏に倣い、インテリアデザインからウェブサイト・アプリの設計など、幅広くデザインの領域を渡り歩きました。自分に限界もフレームも与えない、何にでも挑戦し、ご依頼いただく方に「プレゼント」を捧げたいと、意気揚々としていました。
――この時期に出会った人について、印象的なエピソードがあれば、お聞かせください。
自分と同時期に、時期を同じくして、デザイン事務所に勤務し、お互いに切磋琢磨しあってきた同年代の仲間が、続々とフリーランスになりました。彼らと相互に交流しながら、多種多様・他業種の方たちと懇親を持ったり、コラボレーションしたりして、いろんなケミストリーが起こっていきました。そんな毎日が、とても刺激的でした。
いろんな業界のトップランカーの方にお会いする機会も増えました。以前のようにデザイン事務所のスタッフとしてではなく、対等にというのは烏滸がましいのかもしれませんが、プロのデザイナーとして向き合うことができる。それは、おもしろい発見の連続する日々でした。
トップランカーの方というのは、ものの本質を貫く人が多く、そうした方たちは過去の実績などのいわゆるポートフォリオ、これまでの経歴などを訊かないものなのだなと感じました。直に交わした二言三言の会話などから「あなたにお願いしたいのです」とお話を持ち掛けてくださることが多く、人を見て、人を信頼して仕事をしていくことの大切さとおもしろさを教わりました。
自分自身の奥底に眠る「WOW!!」を見せる
――もしも、パラレルワールドの自分のような存在がいたとして、これまでのご自身の決断について、彼女に何か助言したいことはありますか。
これはあまりお話ししていないことですが、私の中には常に「私A」と「私B」がいます。Aは生身の私自身、BはAを少し離れたところで「見ている」私です。
Facebookなどで赤裸々に書いているので、「よくそんな状況であんなに冷静に書けますね」と言われるのですが、あれは私Bが書いているのです。私Bは生身の肉体を持たない意識みたいな存在なので、痛みや恐れなどの感情をほとんど持っていません。だからあくまで状況や真実をレポートすることに長けています。
私Aは泣いたり喚いたり妬み嫉みを言ったりどうしようもないくらいの闇を抱えて、井戸の底にいます。
この2つの人格がまさにパラレルに存在しているのです。
ある意味それは多重人格者の方のように、起こり来る衝撃や到底受け止めきれないものを分散して受け止めるというような術が、いつの間にか自分に備わったという感覚です。
これを生身の一人の人格の中で行える方もいるのでしょうが、3Dパース(完成後の外観や内観を、写真のように立体的な絵にするもの)を描くときのモニター画面のように、前・横・後ろ・斜め上・斜め下…という具合にいろんなパースペクティブを持って「私」を眺め分析する役割の私Bと、ただその場に立ち止まりひたすら感情を剥き出しにする私Aを存在させることで均衡が取れるというか、そういう感じです。
ただおもしろいのはこの私AもBも自発的に「やめとけ」とか「すすめ」とかいう指示を出したり意見を交換し合ったりすることはないのです。
その原動力はこれら2つを統括する「インスピレーション」とでもいうべき、もう一段上の階層の私がその意思決定をしている感じがします。
インスピレーションは、私だけで構成されているのでなく、どちらかというと外部的に入力される情報や思いが総集されたものとして存在している感じです。
突き動かされるというか。結果としてそういう形になる。結果としてそういう決断を「取った」ように見えるといった具合で。私自身がAもBも含め、よしそうしようとまず決めるというよりは、もっと大きな引力に導かれて毎回進んでいる感じです。
そうした一連のものの根っこは、でもやはり、ものづくりの精神の中にあるかとも思います。最初に入院していた頃はまだ私Aの存在しかなく、医師からの言葉、出て来る数値、状況をすべてAが受け止めてしまうことでとても生きづらい思いをしました。
そのとき、「ああ、自分はデザイナーとして何をやってきたんだ」と、気づきました。デザインの仕事では、センスだの才能だのということではなく、情報処理をすることが大切だからです。クライアントが言う要望をいかにゾーニングしてグルーピングできるか。話し方や所作からその人の内面をどのくらい自分に「イタコ」できるか。
デザイナーとは、その人自身がまだ気づいていない自分の奥底に眠っている「WOW!!」を引き出して来る仕事だと思っています。
人は、自分の想像の範囲の中で起こることにはワクワクしないし、「WOW!!」とも思わないのではないでしょうか。
「WOW!!」は、本当はその人の中に眠っていたものなのですが、外部から「WOW!!」を見せられることで、一気に世界の見え方が変わります。
私Aだけで苦しんでいたときに、私はそんな私Aをクライアントにして、私Bというデザイナーが自分で自分をデザインしていこうと考えました。それがこの2つが生まれた起源です。
そうやって事実や現象をいろいろとこねくり回していく。あらゆる角度から見直してみることで、病と向き合うこころをほぐし、時に打ちひしがれ、時に再起して進んで来た10年だと思っています。
治療の効果・予後に影響する新型コロナ
――心身共に強い覚悟や支えが必要な入院・治療を受ける方にとって、新型コロナ下の状況(面会謝絶など)はどのようなものでしょうか。このような状況に関して、医療関係者や家族、一般の人々に伝えられることがもしあれば、うかがえますか。
病と向き合い快方に向かうには、患者さん本人はもちろんのこと、患者さんを取り巻くすべてのループの中にいる方々の思い・役割分担がとても大切です。具体的には治療費を稼ぐために働く人、側に寄り添って話を聞く人、思いを届けるために手紙を書く人、いつもと同じバカ話をしてくれる人など、そうした一人ひとりが力を寄せ合うことで、病は癒えていくと思っています。
もちろん確かな医療技術や、それを支える医療従事者のみなさんのお力も絶大なるものとして、患者さんの心身を下支えします。ですが病は患者さんご自身が治すものなのです。「生きる」「治る」と強くこころに持って前に進むにはまさに総力戦、関わる全ての方のパワーが不可欠です。
コロナ禍において、フィジカルな、フェイストゥフェイスの患者さんへのサポートが物理的にできなくなってしまうことは、患者さんの内面をサポートしていく上で由々しき事態です。治療の効果・予後を左右する重大な問題だと思います。
特に血液疾患の場合、治療上いわゆる「無菌室」といわれる空間で過ごさねばならない時間が長く、ただでさえ閉塞的、一旦入院すれば病棟の外にすら出ることができない、食事や生活に関わる全てが厳重に管理され、一切の自由がない中で過酷な治療に挑まねばなりません。
こうした状況下で全く外部的な人との接触を絶たれてしまうことは生命線を失うに等しい事象です。とはいえ、血液疾患に関わらずすべての病において「感染症」は生死を分ける一大事であることに変わりはありません。この未曾有の危機に直面しているのは自分一人ではないという心持ちを忘れず、この孤独を経るからこそ、次に家族に、大好きな人たちに会える時の喜びはこれまでの何万倍であるという思いを持って、治療に前向きに取り組んで欲しいと願います。
――治療や、闘病生活を送る中で、社会に生きる人々の意識について、「こう変わっていければよい」など、気づいたことはありますか。
人は何かに直面し、はじめて気づきを得ると思っています。近年予防医療などの研究・開発が進み、この先20-30年のうちに、癌などを含めほとんどの病気が事前に察知することができ、予め対策を練ることができるようになるのかも知れません。極端に言ったら人間そのものをデザインするという試みも一部ですでに語られているように、一般的になっていくのかも知れません。
ただ、人類がはじまって以来一度たりとも、人間がこの世のすべて、「自然」をコントロールできた例はありませんし、「知る」ということは「変わる」ということなのだという意識を忘れてはならないといつも思います。
がんの告知をされた帰り道は、いつもの道のはずなのに、全く違う風景に見えます。大好きだったものが大嫌いになったりもします。「知った」ことで自分が「変わる」というのはそういうことです。
がんや病気を忌み嫌い、自分の人生から何とかして排除しよう、何とか苦しみのない人生を送りたいというのは人間の性でしょう。でも、何かに怯えて用心しても、「知った」あとの自分は今の自分ではないので「変わる」のだということを覚えておくと少し楽になるのかなと思います。
見える世界だけが全てではない。見えない世界も共存した世界に私たちは生きています。でもだからこそ楽しい、だからこそおもしろいのです。生きていく力の源泉は誰もの中に眠っています。特に都会に暮らしていると、その「生きる力」のスイッチをOFFにしても、快適に便利に日々を過ごせてしまい、自分がその力を持っていることを忘れてしまいがちですが。
「あなたは元々強いからそう思えるのだ」とよく言われます。でも強い人間なんて存在しないと私は考えます。強いものが生き残れるのではない。自分を生かすのは自分自身、生きる!と思う自分の意思です。そうやって浮き上がる力を誰しもが持っています。だから何があっても大丈夫、生きていける。何度でも生き直せる。予期せぬ何かが起きた時、このことを思い出して頂けたらうれしいです。
この世界は生きるに値する
――移植治療による苦痛を2度耐えるということは、想像を絶するものです。今回、さらに3度目の治療を受けられることを覚悟されました。この世界は、それほどの苦痛をくぐってでも、生きるに値するものなのでしょうか。
シンプルに一言で答えるとしたら、この世界は生きるに値すると私は思っています。LIFE IS BEAUTIFUL。そして「死にたくない」と「生きたい」は全く別の概念です。人間は「生きたい」「生きる」と自分で決めているうちは生きていられるものなのだと思っています。ただそのためには、生きるためのシッポをいつも掴み続けていなければならない。人生は、そういう過酷な修行の場でもあると思います。
病気があってもなくても、皆それぞれの痛みの中で、「想像を絶する」世界の中で一生懸命生きていると私は思っています。病気だけが特別に苦しいものではないのです。
お金の問題、恋愛関係、仕事、家庭、子どもとの向き合い方など、挙げたらきりがありません。人間の悩みは様々です。強い人間など存在しません。皆、それぞれに苦しみ、もがき、今日を何とか生きていると思っています。
一見いかにも幸せそうで、光が降り注いでいて、何も問題を抱えていないように見える人ほど、その人生に落ちる影が濃く、深いものです。
目に見えている世界だけが全てだと思って生きていると、自分ばかりが不幸を背負っているようで、日々やるせなくなるでしょう。でも、この世界は見えていない部分の方が圧倒的に多いのです。
だからこそ、この世界には伸び代がある。この世界は何度でも生きる価値がある。高い山にぶつかっても、「よしやってやろう」とその山を越える意味があるのです。山の先の景色を、まだ見ていないから。まだ自分が知らない世界があるはずだぞとワクワクしていれば、困難があっても、きっと前に進めるんじゃないでしょうか。
天命というのは文字通り、神様か仏様か、どなたか偉い方が与えてくださった時間を意味します。進む道がどれだけ険しかろうが、辛かろうが、生まれ落ちたこの世界はそういう修行のもとに成り立っていると思えば、歩みを進める理由がそこにはあります。
太陽だけしか昇らなかった日は、地球がはじまって1日もありません。陰と陽。さまざまなことは対になって起こっています。だから痛みも悲しみも、妬みも嫉みも苦しみもすべて長続きはしないのです。そうした経験の向こうにはすでにそれと同じか、何倍にもふくらんだしあわせ、安らぎが待っています。与えられた条件や状況、いろんな困難、いろんな絶望。そういうのを全部自分の中に取り込んで、それに合わせて生きていくということです。
人生はスパイシーで不協和音だらけのブルースです。でも「それでいいのだ」とむしろそこを楽しんでいく。悩み苦しみもがいてどうしようもない日もたくさんある。でもその先の未来はワクワクしかない。それが、私が今日を生きる理由です。
参考リンク
国立がん研究センターがん情報サービス「造血幹細胞移植」
https://ganjoho.jp/public/dia_tre/treatment/HSCT/index.html
㈶日本骨髄バンク
プロフィール
服部美咲
慶應義塾大学卒。ライター。2018年からはsynodos「福島レポート」(http://fukushima-report.jp/)で、東京電力福島第一原子力発電所事故後の福島の状況についての取材・執筆活動を行う。2021年に著書『東京電力福島第一原発事故から10年の知見 復興する福島の科学と倫理』(丸善出版)を刊行。