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「伊豆木陣屋」の版間の差分

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江戸時代初期の[[寛永]]年間ごろの懸造りによる武家[[書院]]。南の約3分の1が崖の上に迫り出した構造で、正面には、桁ゆき3.43m、梁間3.73mの唐破風造りの玄関がある。この玄関は、1872(明治5)年に御用所の表玄関を引き移して書院の正面入口としたもの。虹梁上に家紋の三階菱を装飾した蟇股を据え付ける。書院はこけら葺きの入母屋造りで、書院の内部は桁ゆき14.4m、梁ゆき11.5m、「田の字」型に4室に分けられ、北側を除く3方に側縁を巡らせている。用材は[[恵那山]]一帯の総[[ヒノキ]]造りである。展示品には室町時代の白輿などがある。[[1872年]]に書院、玄関、室蔵一棟を残して解体された。1999年に小笠原資料館が開館、設計は[[SANAA]]が手掛けている。
江戸時代初期の[[寛永]]年間ごろの懸造りによる武家[[書院]]。南の約3分の1が崖の上に迫り出した構造で、正面には、桁ゆき3.43m、梁間3.73mの唐破風造りの玄関がある。この玄関は、1872(明治5)年に御用所の表玄関を引き移して書院の正面入口としたもの。虹梁上に家紋の三階菱を装飾した蟇股を据え付ける。書院はこけら葺きの入母屋造りで、書院の内部は桁ゆき14.4m、梁ゆき11.5m、「田の字」型に4室に分けられ、北側を除く3方に側縁を巡らせている。用材は[[恵那山]]一帯の総[[ヒノキ]]造りである。展示品には室町時代の白輿などがある。[[1872年]]に書院、玄関、室蔵一棟を残して解体された。1999年に小笠原資料館が開館、設計は[[SANAA]]が手掛けている。


=== 重要美術品(重要文化財)への指定 ===
=== 重要美術品(重要文化財)への指定 ===

2024年5月19日 (日) 05:51時点における版

地図
地図

伊豆木陣屋(いずきじんや)は長野県飯田市伊豆木(信濃国伊那郡)にあった交代寄合旗本小笠原氏1千石の陣屋である。

概要

陣屋は慶長5年(1600年)に松尾小笠原氏の小笠原信嶺の弟で交代寄合旗本となった小笠原長巨(な��なお)によって築かれた。徳川家康の命で武蔵国本庄から転封となり、中世の山城である伊豆木城の麓に陣屋を構えた。

陣屋は居間、書院を中心に土蔵、厩舎などがあった。陣屋入り口には物見櫓があり、陣屋門として太鼓門があった。太鼓門は現在、飯田市伝馬町の専照寺の山門となっている。

陣屋の南側を取り巻くように兄川が流れている。小笠原氏の築いた陣屋にて明治維新を迎えている。交代寄合は江戸城柳の間詰で、老中・若年寄の支配を受けたが、妻子は諸大名とは異なり在所で生活することが許された。

遺構

明治以降、建物が取り壊される中で書院(旧小笠原家書院)と玄関が現存している。陣屋址には旧陣屋門と物見櫓の石垣が残っている。

旧小笠原家書院

旧小笠原家書院
崖の上に張り出した書院の「懸造」
書院の間
火灯(頭)窓をあしらった書院

江戸時代初期の寛永年間ごろの懸造りによる武家書院。南の約3分の1が崖の上に迫り出した構造で、正面には、桁ゆき3.43m、梁間3.73mの唐破風造りの玄関がある。この玄関は、1872(明治5)年に御用所の表玄関を引き移して書院の正面入口としたもの。虹梁上に家紋の三階菱を装飾した蟇股を据え付ける。書院はこけら葺きの入母屋造りで、書院の内部は桁ゆき14.4m、梁ゆき11.5m、「田の字」型に4室に分けられ、北側を除く3方に側縁を巡らせている。用材は恵那山一帯の総ヒノキ造りである。展示品には室町時代の白輿などがある。1872年に書院、玄関、室蔵一棟を残して解体された。1999年に小笠原資料館が開館、設計はSANAAが手掛けている。

重要美術品(重要文化財)への指定

旧制飯田高等女学校の教諭であった市村咸人は、早くから保護の必要性を説いていたとされる[1] 。1948(昭和23)年7月に文部技官の乾兼松による調査が行われ、同年10月1日に重要美術品に認定された[2] 。その後も、東京大学の藤島亥治郎の指導、東京大学の太田博太郎、文部技官の橋本文雄らによる調査が行われた[3]

1951(昭和26)年に文化財保護法が成立、1952(昭和27)年3月29日に重要文化財の指定を受けた[4] [5] 。住宅としては日本全国で最初の指定であった[6]

修理工事

指定後、建物の保存活用については、所有者である小笠原六男および市や県の関係者と議論が進められた。所有者から、維持管理のため飯田市で買収してほしい意向が示され、1961(昭和36)年の集中��雨による被害からの復興事業のため買収の計画は停滞したが、1963(昭和38)年から売買契約が進み、1964(昭和39)年に書院および周辺の土地が市の所管となった[7]

土台のいたみによる建物の傾きに加え、旧所有者の転出により空き家の状態となったため、建物の破損もすすんだ[8]。また、地域では、1959(昭和34)年に小笠原家住宅が「惨さんたる荒廃ぶり」であり、地元の熱意により対策をしていこうという提言もみられ[9]、関心が高まっていた[10]。1969(昭和44)年4月には半解体工事に着手、翌年9月に完了した[11]

伊豆木小笠原氏

  • 系図[12]小笠原長巨長巨-長泰-長朝-長貞-長暉-長孝-長煕-長著-長計-長厚-長裕
小笠原家資料館

参考文献

  • 『重要文化財小笠原家住宅修理工事報告書』飯田市編、1970年
  • 『下伊那史 第7巻』下伊那史編纂会、1980年
  • 『長野県史 美術建築資料編 建築』長野県史刊行会、1992年
  • 西ヶ谷恭弘・日本城郭史学会編 『国別城郭・陣屋・要害・台場事典』 東京堂出版、2002年
  • 久保田安正『伊豆木小笠原氏と小笠原書院』南信州新聞社、2005年

出典

  1. ^ 三穂村史編纂刊行会『三穂村史』三穂村史編纂刊行会. 1988.
  2. ^ 三穂村史編纂刊行会『三穂村史』三穂村史編纂刊行会. 1988.
  3. ^ 三穂村史編纂刊行会『三穂村史』三穂村史編纂刊行会. 1988.
  4. ^ 三穂村史編纂刊行会『三穂村史』三穂村史編纂刊行会. 1988.
  5. ^ 文化遺産オンライン「旧小笠原家書院」[1]
  6. ^ 三穂村史編纂刊行会『三穂村史』三穂村史編纂刊行会. 1988.
  7. ^ 『重要文化財小笠原家住宅修理工事報告書』飯田市. 1970.9. p.5.-6.
  8. ^ 『重要文化財小笠原家住宅修理工事報告書』飯田市. 1970.9. p.5.-6.
  9. ^ 宮下「文化財の修復と小笠原家住宅」『伊那』伊那史学会 編 伊那史学会, 1959-09(376), p.34. https://dl.ndl.go.jp/pid/4431212/1/20
  10. ^ 『重要文化財小笠原家住宅修理工事報告書』飯田市. 1970.9. p.5.-6.
  11. ^ 『重要文化財小笠原家住宅修理工事報告書』飯田市. 1970.9. p.5.-6.
  12. ^ 久保田安正『伊豆木の殿さま』南信州新聞出版局、2011年、30頁。 

外部リンク

座標: 北緯35度26分46.0秒 東経137度47分41.5秒 / 北緯35.446111度 東経137.794861度 / 35.446111; 137.794861