メリーランド (戦艦)

アメリカ海軍の戦艦

メリーランド (USS Maryland, BB-46) は[3]アメリカ海軍戦艦[注釈 1]コロラド級戦艦の2番艦である[5][注釈 2]。 艦名はメリーランド州にちなむ。 その名を持つ艦としては3隻目にあたる[注釈 3]。 名前の上ではコロラド級2番艦だが、同型艦4隻の中で最初に竣工したため[注釈 4]ネームシップと見なされ、メリーランド級戦艦[8][9]メリーランド型戦艦と表記する場合がある[注釈 5]

メリーランド
竣工当時のメリーランド(1922年)
竣工当時のメリーランド(1922年)
基本情報
建造所 ニューポート・ニューズ造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
艦種 戦艦
級名 コロラド級戦艦
艦歴
発注 1916年12月5日
起工 1917年4月24日
進水 1920年3月20日
就役 1921年7月21日
退役 1947年4月3日
最期 スクラップとして売却
要目
基準排水量 32,600 トン
満載排水量 34,4946.4 トン
全長 190.20 m
最大幅 29.7 m(改装後:32.92 m)
吃水 9.2 m
機関 蒸気タービン 4軸
出力 公試29,000 shp (22 MW)
最大速力 21 ノット
乗員 士官・兵員:1,080名
兵装 45口径40.6cm砲:8門
51口径12.7cm砲:14門[1]
50口径7.6cm砲:4門[1]
水中魚雷発射管:2門
出典:[2]
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愛称は「メリー(メアリー)」 (Mary) [注釈 6]、「ファイティング・メリー」 (Fighting Mary) 、「オールド・メリー」(Old Mary) [15]

概要

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メリーランド (USS Maryland,BB-46) は[7]、アメリカ海軍が第二次世界大戦で運用した標準型戦艦[16]、コロラド級戦艦の2番艦[17]ニューポート・ニューズ造船所で建造されて1921年(大正10年)7月に竣工し[注釈 7]、同級4隻のうち唯一ワシントン海軍軍縮条約までに竣工した[19]。このためメリーランド級戦艦と呼称することもある[9][20][注釈 8]。 16インチ砲連装砲塔四基(計8門)を搭載した本級は、海軍休日時代 (Naval Holiday) に[21]、「世界七大戦艦(ビッグ・セブン)」や「ビッグ・ファイヴ」と称された[注釈 9][注釈 10]

メリーランドは1941年(昭和16年)12月7日[26](日本時間8日)の真珠湾攻撃で空襲により小破し[27]、修理を兼ねて近代化改装がおこなわれた[28][29]。 1942年(昭和17年)前半には戦列に復帰し、護送任務や警戒任務に従事する[30]。1943年(昭和18年)中盤以降にアメリカ軍の本格的反攻がはじまると、主に上陸作戦における地上部隊支援任務に従事した[31]。1944年(昭和19年)6月22日、サイパン島攻防戦一式陸上攻撃機の魚雷攻撃により艦首に被雷、修理と改装工事をおこなう[32]

同年10月中旬以降のフィリピン攻防戦における本艦は第7艦隊隷下の第77任務部隊(指揮官オルデンドルフ少将)に所属して上陸部隊を支援した[33]10月25日未明のスリガオ海峡夜戦では[34]、僚艦と共に“西村艦隊”を撃滅して勝利した[35][36]レイテ沖海戦[37]両軍の戦闘序列)。11月27日、一式戦闘機航空特攻により損傷し[31]真珠湾に帰投して修理をおこなう。

1945年(昭和20年)3月以降の沖縄戦から戦列に復帰し、第5艦隊隷下のモートン・デヨ少将に率いられ、地上部隊支援任務に従事する[38]4月7日、戦艦大和海上特攻部隊として沖縄を目指していたので[39]、第5艦隊司令長官スプルーアンス大将はデヨ部隊の戦艦部隊で迎撃する手筈を整えた[40]。メリーランドも大和との決戦に備えたが特攻機に突入されて損傷し[32]、さらに大和は第58任務部隊艦上機により撃沈されていた[41]。アメリカ本土で修理中に日本の降伏という事態を迎え、連合軍将兵の復員作戦に従事したあと、予備役となった[31]。1959年(昭和34年)に解体された[31]

艦歴

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太平洋戦争まで

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近代化改装後のメリーランド

アメリカ海軍はダニエルズ・プランにより[42]、16インチ砲(40.6cm砲)を搭載したコロラド級戦艦を4隻建造することになった[43]。前級のテネシー級戦艦14インチ50口径砲三連装砲塔四基(合計12門)だったが[44][45]日本海軍長門型戦艦に16インチ砲を搭載することが判明する[46][注釈 11]。アメリカは今後建造されるテネシー級の主砲を強化する意向を固め、16インチ45口径砲連装砲塔四基(合計8門)を搭載することになった[47][48]。 1番艦コロラドと3番艦ワシントンはニューヨーク造船所で建造され、2番艦メリーランドと4番艦ウェストバージニアはニューポート・ニューズ造船所で建造された[49][6]。メリーランドのみ1917年度予算で起工し、他3艦は1919年度予算で建造されたという[50]

メリーランドは1917年(大正6年)4月24日にバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船所で起工した[50]。1920年(大正9年)3月20日にE・ブルック・リー夫人(メリーランド州監査役の妻)によって命名、進水し、1921年(大正10年)7月21日に初代艦長C・F・プレストン大佐の指揮下就役した。メリーランドは、起工、進水、就役の全てで1番艦コロラド(起工1919年5月29日、進水1921年3月22日、就役1923年8月30日)に先行している[7]。本艦は、アメリカ合衆国において最初に就役した16インチ砲搭載戦艦になった[50]

本艦就役後の同年11月中旬よりワシントン会議がはじまる[51][52][注釈 12]。 翌年2月にワシントン海軍軍縮条約が結ばれ[54][注釈 13]、コロラド級戦艦3番艦のワシントン[22]標的艦として処分された[56][注釈 14]。 戦艦として就役したのは3隻(コロラド、メリーランド、ウェストバージニア)であった[58][注釈 15]

16インチ砲を搭載した列強各国の戦艦7隻は[60]世界七大戦艦[61][注釈 16]ビッグ・セブンと評された[63][64]。アメリカでは、コロラド級3隻(コロラド、メリーランド、ウェストバージニア)とテネシー級2隻(テネシーカリフォルニア)でビッグ5 (Big Five) と称されて親しまれた[24][50]

真珠湾攻撃

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転覆したオクラホマと、損傷したメリーランド。後方ではウェストバージニアが炎上している。

海軍休日時代のコロラド級戦艦は、主砲を16インチ45口径砲Mk.5に交換したり[65]、副武装や航空艤装に多少の変更があった程度で[66]、自国のニューメキシコ級戦艦や他国の旧式戦艦のような本格的近代改装を実施されていなかった[67]。 1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦が始まると、メリーランドはコロラド級3隻の中で最初にバルジ装着工事を受けた[68]。また四連装28mm対空機銃を姉妹艦3隻の中で唯一装備していた[69]

1941年(昭和16年)12月7日(日本時間12月8日)朝[70]南雲機動部隊の日本軍空母6隻[71]から発進した艦上機パールハーバーを奇襲した[72]真珠湾攻撃[73][74]太平洋艦隊の第四戦艦戦隊 (Battleship Division 4) に所属していたメリーランドは[75]、他の主力艦と共に、真珠湾在泊であった[76]真珠湾攻撃、両軍戦闘序列[注釈 17]フォード島 - 戦艦メリーランド - 戦艦オクラホマの順番で繋留されていたので[77]戦艦列英語版の内側にいた本艦は魚雷攻撃を受けなかった[78][79][注釈 18]。 被害を受ける要因となったのは、赤城飛行隊長淵田美津雄中佐が率いる九七式艦上攻撃機の水平爆撃隊(第一波攻撃隊)と[80]、蒼龍飛行隊長江草隆繁少佐が率いる九九式艦上爆撃機急降下爆撃部隊(第二波攻撃隊)であった[81][注釈 19]。 水平爆撃隊は長門型戦艦九一式徹甲弾16インチ砲)を改造した800kg爆弾を搭載していた[84][85]。 日本側記録では、ウェストバージニヤ型戦艦(メリーランド、目標E)に800kg徹甲爆弾2発(赤城攻撃隊投下)[86]、急降下爆撃では赤城攻撃隊・加賀攻撃隊・飛龍攻撃隊が250kg爆弾計7発以上命中を観測した[87][88]。アメリカ側記録では、大型爆弾1発、250kg爆弾1発、至近弾多数の命中を記録した[89]。戦死者は4名であったという[75]。1発は艦首部分に命中し、3.7 m x 6.1 m の破孔を形成した。2発目は10番フレーム付近に命中し、この爆発により浸水が発生し船体が前部方向に1.5m沈下した[90]

メリーランドの外側にいたオクラホマは[12][91]、日本軍機の雷撃をまともに受け、魚雷多数が命中して転覆した[92][93]。オクラホマから脱出した乗員はメリーランドに移って対空射撃を行っている。また航空機用ガソリンを満載した状態で戦艦列のガソリン桟橋にいた油槽艦ネオショーは、第一次空襲と第二次空襲の間隙をぬって自力で退避した[94]。これはアメリカ側にとって幸運な結果となった[95]。メリーランドとオクラホマの前方に停泊していたネオショーが仮に被弾して爆発したら、周辺3隻(メリーランド、テネシー、ウェストバージニア)は大火災に巻き込まれて完全に失われた可能性が高い[注釈 20]。 日本軍の攻撃が終わったあとは、本艦の横で転覆したオクラホマや[97]、本艦のすぐ後ろで着底した姉妹艦ウェストバージニアなど[89][注釈 21]、周囲の損傷艦の消火活動や救援活動を行った。士気をたかめるため、軍楽隊は後部甲板で勇壮な音楽を演奏するよう命じられたという[99]

メリーランドの修理は、アメリカ西海岸のピュージェット・サウンド海軍造船所で行われた[注釈 22]

1942年から1944年の行動

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1942年2月9日のメリーランド。太平洋戦争前の姿をとどめている。

損傷の修理と並行して対空火器の増強工事をおこなったメリーランドは[103]、1942年(昭和17年)2月26日に修理を終えた[32]。その後も、折を見て対空機銃は増強され続けた[104]。アメリカ海軍標準型戦艦の特徴だった籠マスト (Cage Mast) は[4]、後部のみ戦中期の改装で撤去されたが、前部マストは退役時まで残った[105][注釈 23]

この頃、大西洋ではイタリア海軍潜水艦が「メリーランド型戦艦を撃沈した」という噂が流れた[110][注釈 8]。これは5月20日午前0時すぎにマルチェロ級潜水艦バルバリーゴ」(艦長エンツィオ・グロッジ少佐)がメリーランド型戦艦と護衛駆逐艦部隊を発見し、戦艦にむけて魚雷2本を発射、撃沈したという報道である[112]。イタリア政府は特別発表をおこない[注釈 24]、イタリア国民は喝采をおくり、グロッジ少佐は中佐に昇進した[114]。グロッジが見たメリーランド型戦艦とはオマハ級軽巡洋艦2隻であり、「ミルウォーキー」が雷撃を受けたが無傷であった。

同年5月下旬に日本軍が発動したMI作戦と、それにともなう6月初旬のミッドウェー海戦は日米双方の空母機動部隊同士の決戦となり[115]、戦艦部隊には出番がなかった(両軍戦闘序列)。メリーランドを含めた任務部隊ウィリアム・パイ中将に率いられ[32]、護衛空母ロング・アイランドと共にパトロールを実施した。

1943年から1944年にかけてのメリーランドとコロラドは、タラワの戦いクェゼリンの戦いサイパンの戦いに参加した[注釈 25]

ガルヴァニック作戦にともなうギルバート・マーシャル諸島の戦いでは、レイモンド・スプルーアンス中将が率いる中部太平洋部隊に所属し[116]ヒル少将の旗艦として1943年(昭和18年)11月下旬のタラワ攻防戦に参加する[117]連合軍艦隊、戦闘序列[118]第2海兵師団ジュリアン・スミス将軍もメリーランドに乗艦していた[119]。戦艦3隻(メリーランド、コロラド、テネシー)は艦砲射撃で日本軍守備隊の防禦施設を破壊し、アメリカ海兵隊の上陸作戦を支援した[120]。だがメリーランドではタラワに対し最初の斉射を行った時に無線機が故障した[121][注釈 26]。上陸作戦中にも無線機の故障に悩まされた[122]。その後は空母機の地上支援や艦砲射撃の正確性も増し、日本側の抵抗力や反撃を粉砕する[123]。連合軍側は、高性能無線装置を持つ海陸両用作戦用旗艦の必要性など、いくつかの戦訓を学ぶことになった[124][125]

1944年(昭和19年)6月、連合軍は中部太平洋を横断してマリアナ諸島を攻撃する[126]。海軍部隊を第5艦隊司令長官スプルーアンス提督が指揮し、メリーランドとコロラドは第52任務部隊(Task Force 52)においてオルデンドルフ提督の火力支援部隊に所属していた(連合軍海上部隊、戦闘序列[127]サイパン島での艦砲射撃は6月14日05:45から開始され、まずガラパンを砲撃して[128]、砲台や陣地、小型ボート、トーチカ、弾薬庫を破壊した。つづいてタナパグに対して砲撃を行った[129]。艦砲射撃と空襲で日本軍の抵抗力を削いだあと、アメリカ軍はサイパン島に上陸を開始した[130]

 
真珠湾に入港したメリーランド。艦首部に魚雷による損傷個所が見える 1944年7月10日撮影

日本軍は、小沢機動部隊基地航空部隊で反撃を試みた[131][132]6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦(連合軍呼称“Battle of the Philippine Sea”)で大敗した日本海軍は[133]、各基地の残存航空機で反撃に出る[134][135]6月22日トラック泊地硫黄島から飛来した小数機が、サイパン島の米軍や同島周辺の米艦隊や輸送船団を攻撃した[136]。このうち一式陸上攻撃機4機がメリーランドを攻撃する[137]。陸攻の雷撃により、右艦首に魚雷1本が命中した。メリーランドは応急修理のために15分後にはエニウェトク環礁への退避を開始し、真珠湾で修理を受けた。艦首に大破孔が出来たために、これらの行程中メリーランドは後進で移動した[138]。2隻の駆逐艦が退避するメリーランドを護衛した。2名がこの攻撃で死亡した[32]

修理後の1944年9月、ペリリューの戦いで火力支援をおこなう[32]。 10月にはレイテ進攻作戦のため[139]第7艦隊 (U.S. Seventh Fleet) として行動する[注釈 27]。 メリーランドは、ジェシー・B・オルデンドルフ少将が指揮する第77任務部隊第2群(火力支援、砲撃群)に所属していた[注釈 28]。 第77任務部隊は、レイテ島上陸作戦を支援した[142]

同年10月24日深夜から25日未明にかけて、スリガオ海峡で第77任務部隊と、第一遊撃部隊第3部隊[143](通称“西村艦隊”または“西村部隊”)[35]との間で夜戦が繰り広げられる[144]レイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦[36]。 西村艦隊は米軍水雷戦隊の襲撃で戦艦扶桑[145]と駆逐艦3隻が沈没するか戦闘不能となった[146][147]。オルデンドルフ中将の戦艦部隊の前に現れたのは、戦艦山城、航空巡洋艦最上、駆逐艦時雨だけだった[36]。 メリーランド以下の戦列部隊は、西村艦隊残存3隻に集中攻撃を加える[148][149]。第77任務部隊は山城を撃沈し[150]、味方駆逐艦アルバート・W・グラントを同士討ちで撃破したのみで[151]、最上と時雨に逃げられた[注釈 29]。メリーランドは西村艦隊残存3隻を明確に識別できず、ウェストバージニアの弾着の水柱を照準にして砲撃をおこなった[154]。主砲発射弾数は48発であったという[32]

レイテ島攻防戦における日本陸軍航空部隊の基幹戦力は、第四航空軍(司令官富永恭次陸軍中将)であった[155]11月29日一〇〇式司令部偵察機レイテ湾に集結した連合国軍大輸送船団(輸送船150隻)を発見する[156]。第四航空軍隷下の第2飛行師団は、特別攻撃隊の靖国隊(大坪明陸軍少尉以下一式戦闘機6機、直掩:一式戦5機)を発進させた[157]。靖国隊は同日夕刻にレイテ湾の連合軍大艦隊に突入して、戦艦1隻撃沈、戦艦または巡洋艦1隻大破炎上、輸送船3隻炎上を報じた[158]。 連合軍側の記録では、戦艦メリーランド、駆逐艦ソーフリー、駆逐艦オーリックが特攻機の突入で損傷している。メリーランドを攻撃した一式戦「隼」は、前部主砲塔間に体当たりした[159]。炎上した本艦では31人が死亡し、30人が負傷した[160]。メリーランドは修理のため12月18日に真珠湾に帰還した[注釈 30]

1945年以降

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1945年8月に撮影されたメリーランド

メリーランドは沖縄戦のため1945年(昭和20年)3月初頭に復帰し、16日ウルシー環礁に到着した。沖縄戦におけるコロラド級3隻(コロラド、メリーランド、ウェストバージニア)は、レイモンド・スプルーアンス大将が率いる第5艦隊 (U.S. Fifth Fleet) においてモートン・デヨ少将第54任務部隊に所属した[13][162]。沖縄上陸作戦がはじまると、第54任務部隊(射撃支援隊)は第51任務部隊(統合派遣隊、指揮官ターナー中将)の上陸作戦を支援した[163][164][注釈 31]

3月26日、日本海軍は天一号作戦を発動し[166][167]、4月初旬には菊水作戦も発動する[168][169]。九州各地に基地をおく日本海軍の航空艦隊第六航空軍(司令官菅原道大陸軍中将)[注釈 32]および第八飛行師団(飛行団長山本健児陸軍中将)から[172]、特攻隊を含む大部隊が沖縄方面の連合軍を撃滅すべく出撃した[173]。 この過程で[174]、日本海軍は戦艦大和[注釈 33]第二水雷戦隊等で水上特攻隊を編成する[177]。大和部隊は、沖縄の日本陸軍(第32軍)総攻撃に呼応して[178]、沖縄方面に突入することになった[179][180]

4月6日夕刻、B-29瀬戸内海を出撃しようとする日本艦隊を発見した[181]。つづいて連合軍潜水艦2隻が九州東岸を南下する第一遊撃部隊(大和部隊)を発見して各方面に通報した[182][183]。 スプルーアンス大将は第54任務部隊(デイヨ少将)の戦艦部隊で大和部隊を迎え撃つ方針であった[40][184]。第54任務部隊に加わっている大勢の士官たちも、スプルーアンスやデヨと同様に、大和との対決を望んでいた[185]。ところがマーク・ミッチャー中将指揮下の第58任務部隊(空母機動部隊)も大和を撃沈する決意を固めており、密かに攻撃隊発進の手筈を整えていた[186]

4月7日[187]、大和部隊との「会敵が予想される直前」に沖縄周辺のアメリカ艦隊は神風特別攻撃隊振武隊に襲われる[注釈 34][注釈 35]。 これは菊水一号作戦により各地の航空基地から出撃してきた特攻機であった[190][191][173][192]。 18時43分、アメリカ艦隊は未確認機1機を発見し、巡洋艦部隊が対空砲火を浴びせたが、この特攻機を撃墜できなかった[193]。メリーランドに右舷から250キロ爆弾を装備した特攻機が突入し、3番砲塔の天蓋部分に命中して大規模な火災が発生する。20mmの機銃座は破壊され、第3砲塔も使用不能に陥った。10人が死亡し、37人が負傷して6人が行方不明になった。メリーランドの艦長や乗員たちも大和との対決を望んで戦列を離れようとせず、デヨ少将から報告を求められた際に、「戦闘航海に支障なし」と嘘をついて重大な損害を隠した[193]。しかし、メリーランドがこの特攻機の攻撃を受けたのは7日の夕方であり、すなわち大和はアメリカ海軍空母機動部隊の空襲により[176]、午後2時30分過ぎに沈没した後であった[179]。メリーランドの艦長や乗員、並びにその上官であるデヨ少将らは、この特攻攻撃の後に、大和がミッチャー中将の第58任務部隊[182]によって沈められていたことを知ることになる[193]

メリーランドは4月14日に沖縄を離れ[32]、グアムと真珠湾を経由して、ピュージェット・サウンド海軍造船所で3番主砲塔の修理とオーバーホールを受けた。10門の主砲は寿命を迎えていたために全て交換された。高角砲も38口径12.7cm砲片舷4基(計8基16門)に換装したり、各種装備の改善や重量軽減対策をおこなう[194]。作業は8月までかかり、メリーランドが再び戦場に戻ることは無かった[32]

日本の降伏により太平洋戦争終結した。終戦後、マジック・カーペット作戦でアメリカ西海岸と真珠湾の間を5回航海し、8,000人以上の軍人を米国に送り返した。1947年(昭和22年)4月3日にブレマートンで退役し、 1959年(昭和34年)7月8日にカリフォルニア州オークランドで、スクラップとして売却されのちに解体された。

栄典

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メリーランドは第二次世界大戦の戦功により7個の従軍星章を受章した[195]

脚注

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注釈

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  1. ^ 戰艦“メリーランド Maryland[4] 全要目{排水量31,5000噸 速力21.0節 備砲 40糎砲8門 13糎砲12門 魚雷發射管(53糎水中)2門 起工1917年4月 竣工1921年7月 建造所 紐育造船會社} 米國海軍の有する三大戰艦(40糎砲搭載戰艦)の一で正に我が陸奥、長門に匹敵するものである。全長190.18、幅29.63米、平均吃水9.3米、全速力21の軸馬力27,300馬力で推進器は4個を有し電氣推進である。上記の外に13糎高角砲8門を有しカタパルト2基を備へてゐる。搭載飛行機平時3機といふ事である。合衆國艦隊の中樞主力であるとはいつたものゝ、最早その型は餘りにも舊くして艦隊旗艦たるには適さない。米國戰艦改装の最後に殘され、やうやくこの程他の二艦“コロラド Colorado” “ウエスト・ヴァージニア”と一緒に改装に着手された。古風なカゴマストも除かれるであらう。
  2. ^ 戰艦“コロラド Colorado[6] 全要目{排水量32,500噸 速力21.0節 備砲40糎砲8門 12.7糎高角砲12門 魚雷發射管(53糎水中)2門 起工1919年5月 竣工1923年8月 建造所 紐育造船會社} 米國海軍の有する三大戰艦(40糎砲搭載戰艦)の一で正に我が陸奥、長門に匹敵するものである全長190.18米、幅29.63米、平均吃水9.3米、全速力21節の軸馬力27,3004馬力で推進器は4個を有し電氣推進である。上記の外に13糎高角砲8門を有しカタパルト2基を備へてゐる。搭載飛行機平時3機。

    戰艦“メリーランド Maryland 米國の40糎砲搭載戰艦の最初に出來たもの。排水量31,500噸、推進器が電氣式でない外すべてコロラドと同じである。1921年7月ニューポートニユース造船所で竣工したものである。これ等米國の40糎砲は最上仰角30度、その着彈距離は33,000米。
  3. ^ 初代メリーランドは、スループ型砲艦メリーランド英語版。2代目はペンシルベニア級装甲巡洋艦メリーランド (USS Maryland, ACR-8) で、1916年(大正5年)11月9日をもってフレデリック (USS Frederick) と改名された。3代目が本艦で、1917年(大正6年)4月に起工した[4]。4代目はオハイオ級原子力潜水艦メリーランド (USS Maryland,SSBN-738) 。
  4. ^ 2番艦メリーランドは、起工、進水、就役の全てで1番艦コロラドに先行した[7]
  5. ^ メリーランド型戦艦の使用例は[10]大本営発表[11]、真珠湾攻撃のニュース報道(NHKアーカイブスポータル[12]、公刊戦史『戦史叢書』など[13]。また日本海軍では、本級をウェストバージニヤ型戦艦と呼称することもあった[14]
  6. ^ ヨーロッパ系の女性名「マリア」の英語圏名
  7. ^  戰艦メェリーランド(一九二一年七月竣工)[18] 基準排水量三一五〇〇噸、(全載量三三五九〇噸)時速二一節。一九一六年、第四六號艦として認可。コロラド(四五號艦)及びウェスト・ヴァジニア(四八號艦)と同型。旗艦たるに適ふ。砲塔並に後尾甲板上に各々一基宛カタパルトを有す。幾らか全載量の大なる外は殆どカリフォルニア級と大同小異。華府海軍條約に依り廢棄。
  8. ^ a b 一、敵方損害[111] ◇撃沈 戰艦五隻{オクラホマ、アリゾナ、ユタ(以上米確認) カリフォルニヤ型、ウエストバージニヤ型(中略)註 一、昭和十六年十二月八日、同十八日、翌十七年三月六日の大本營發表に依る/二、カリフォルニヤ型はカリフオルニヤ及びテネシーの二艦、メリーランド型はメリーランド及びウエストバージニヤの二艦をいふ。但しメリーランド型一隻は一九四二年五月二十一日南米沖大西洋岸に於て伊太利潜水艦に依り撃沈された旨政府は發表した。從つてメリーランド型は二艦とも撃沈されたわけである)(以下略)
  9. ^ 16インチ(40cm砲)を搭載した列強各国の主力艦7隻[22](長門、陸奥、コロラド、メリーランド、ウェストバージニア、ネルソン、ロドネイ)のこと[23]
  10. ^ “ビッグ・ファイヴ”とは[24]、アメリカ海軍における主力艦5隻(テネシー、カリフォルニア、コロラド、メリーランド、ウェストバージニア)の渾名[25]
  11. ^ イギリス海軍が18インチ砲(46cm砲)の試作に成功したことも、アメリカ海軍に影響を与えた[43]N3型戦艦)。
  12. ^ (前略)第二艦の「陸奥」は華府會議の際既に竣工してゐたにも拘らず、米國が未成艦なりと主張して譲らなかつた爲に喧ましい問題となり、遂に「陸奥」を生かす代りに、米國は當時建造中の十六吋砲戰艦「コロラド」「ウェスト・ヴァージニア」の二艦を生かし、英國は新たに「ネルソン」「ロドネー」の十六吋砲戰艦二隻を建造することになつて鳧がついたことは有名な史實である(以下略)[53]
  13. ^ 第一節 主力艦/(一)總説(中略)[55]更に又華府會議の結果として、一旦廢棄の運命に在つた我戰艦陸奥が復活され、之と均衡を保つべく米國に於てはコロラド及ウエスト・ヴアジニアの二艦を竣工就役させ、英國は新たにネルソン、ロドネーの二隻を建造することとなつた。(米國戰艦コロラド、要目および寫眞)
  14. ^ 8代目のワシントン (USS Washington,BB-47) は、1919年(大正8年)6日30日に起工、1921年(大正10年)9月12日に進水、1923年(大正12年)11月10日に廃棄が決定した。1924年(大正13年)11月下旬に各種爆破実験と艦砲射撃の標的となって沈没した[57]ノースカロライナ級戦艦2番艦のワシントン (USS Washington, BB-56) は9代目。
  15. ^ 〔米國〕戰艦ウヱスト・ヴアージニヤ[59] 全長624呎 最大幅97呎3吋 平均吃水30呎6吋 排水量32,600噸 速力21節 備砲(16吋8門 5吋-12門 5吋高角-8門) 魚雷發射管2門 竣工1923年12月  同型艦他に二隻 コロラド メリーランド 
  16. ^ “戰艦“長門 ながと”[62] 全要目{排水量32,720噸 速力23.0節 備砲 40糎砲8門 14糎砲20門 12.7糎高角砲8門 魚雷發射管6門 起工大正6年8月 竣工大正9年11月 建造所 呉海軍工廠} 長門は40糎砲といふ巨砲を世界で初めて搭載した戰艦であり、艦型に於ても從來のものを完全にノツクアウトし、列強海軍をして瞠若たらしめた艦である。從來先進列強にとかく後塵を拝せしめられてゐた帝國は一躍世界をリードする日本たることを證明したのである。新鋭長門は今や聯合艦隊主力として海軍無條約時代に備ふ我海軍たのみの艦である。戰艦は艦隊の根幹でありその價値は搭載する主砲の威力と防禦設備如何に依つて決定される。主砲は敵主力艦隊を撃滅するものであり、副砲は主として來襲する敵の輕快部隊に備へるものである。世界の七大戰艦とは、我が“陸奥” “長門” 英の“ネルソン” “ロドニー” 米の“ウエスト・ヴァジニア” “コロラド” “メリーランド”の七艦である。
  17. ^ 姉妹艦コロラドはピュージェット・サウンド工廠でバルジ装着工事を行っており[68]、難を逃れた[75]
  18. ^ メリーランドの前方には給油艦ネオショーが、後方にはテネシー(内側)とウェストバージニア(沖側)が停泊していた[26]
  19. ^ 水平爆撃隊50機(淵田機含む)の内訳は[82]赤城15、加賀15、蒼龍10、飛龍10[83]
  20. ^ ネオショー艦長のジョン・フィリップス少佐はネオショーを退避させた判断と功績を評価され、海軍十字章を授与された[96]
  21. ^ 炎上するウェストバージニアから発生した煙は、メリーランドの上に覆いかぶさった[98]
  22. ^ 真珠湾で損傷したり沈没したテネシー級戦艦2隻や[100]、1942年1月11日に伊号第六潜水艦の雷撃て大破した空母サラトガ[101]、同時期のピュージェット・サウンド造船所に入渠していた[102]
  23. ^ コロラド級2隻(コロラド、メリーランド)は前部籠マストを残してSCレーダーを装備したが[106]、大修理をおこなった3隻(テネシー、カリフォルニア、ウェストバージニア)は徹底的改装がおこなわれてサウスダコタ級戦艦に類似した艦型となり[107]、籠マストは完全に撤去された[108]。またコロラドとメリーランドはバルジ装着後の横幅32.9mとなりパナマ運河をギリギリで通航可能だったが、ウェストバージニア級は34.75mとなって通過不可能になった[109]
  24. ^ (ブエノスアイレス五月二十四日)[113](中略)因に伊太利政府は金曜日特別コンミュニケを發表し伊太利潜水艦バガリゴ号はブラジル沿岸に於てメリーランド級の米國戰闘艦 三万一千八百噸より三万三千九百噸に魚雷を二發命中させて撃沈したと云つてゐる。伊太利側の發表によれば、米戰艦は二發の魚雷を受けて沈没したが、伊太利潜水艦は結果を見届ける迄現場に在つたと云つてゐる。但し伊太利側の主張の外は何等之を確認すべき報道はない(記事おわり)
  25. ^ 4番艦のウェストバージニアは1944年(昭和19年)9月まで修理を続け、戦列に戻ったのは10月である[31]
  26. ^ 中央通信管制室を増設する場所が司令艦橋しかなく、そこはメリーランドが16インチ主砲の砲身をあげた時、砲口と同じ高さであった[117]
  27. ^ 第7艦隊司令長官キンケイド中将は、第77任務部隊(支援部隊)指揮官でもある[140]
  28. ^ G・L・ウェイラー少将(旗艦ミシシッピ)が指揮する戦列部隊で、戦艦ミシシッピ、メリーランド、ウェストバージニアテネシーカリフォルニアペンシルベニア、駆逐艦オーリックコニーシガニークラックストンソーンウェルズ[141]。(スリガオ海峡夜戦、戦闘序列
  29. ^ 損傷しながら海峡から脱出した最上だったが、昼間の航空攻撃で致命傷を受け、駆逐艦に処分された[152]。逃げ遅れた駆逐艦朝雲は、オルデンドルフ部隊の軽巡や駆逐艦に包囲されて撃沈された[153]
  30. ^ 11月27日に一式戦闘機の特攻部隊(八紘隊)に突入された姉妹艦コロラド[160][161]、応急修理により最前線に残った。
  31. ^ 4月1日、上陸作戦支援中の姉妹艦ウェストバージニアは特攻機の突入により損傷した[165]
  32. ^ 1945年(昭和20年)3月19日、大海指第512号と大陸命第1278号により[170]、3月20日午前0時より南西諸島方面の作戦に関し第六航空軍(日本陸軍)は連合艦隊(日本海軍)の指揮下に入った[171]
  33. ^ 大和型戦艦は18インチ砲を装備した満載排水量7万トン級戦艦だったが[175]、アメリカ海軍の認識では45,000トン級戦艦であった[176]
  34. ^ 4月7日、菊水一号作戦における日本海軍出撃部隊[188]:第四建武隊:爆戦(爆装零戦)12機(爆戦9未帰還)。第三御盾隊601隊:彗星11機(全機未帰還)。第三御盾隊706隊/第四銀河隊:銀河12機(未帰還計9機)。第三御盾隊252隊:爆戦18機(零戦5機未帰還)。
  35. ^ 日本陸軍特攻機[189]4月7日朝に萬世基地より20機出撃(第七十四振武隊)、7日昼間に知覧より30機出撃(第七十五振武隊。天候不良で13機のみ突入)。7日払暁に徳之島から特攻11機(第四十四振武隊)出撃。喜界島から7日早朝に6機(第四十六振武隊)、薄暮に9機で攻撃を実施。

出典

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参考文献

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  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『新装版 福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第六巻 世界戦艦物語』光人社、2009年3月。ISBN 978-4-7698-1426-9 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』 第85巻、朝雲新聞社、1975年6月。 
  • ドナルド・マッキンタイヤー「(5)西村艦隊なぐりこむ」『レイテ 連合艦隊の最期・カミカゼ出撃』大前敏一 訳 、産経新聞社出版局〈第二次世界大戦ブックス5〉、1971年3月。 
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  • ミリタリー・クラシックス編集部、執筆(松代守弘、瀬戸利春、福田誠、伊藤龍太郎)、図面作成(田村紀雄、こがしゅうと、多田圭一)「第二章 アメリカの戦艦」『第二次大戦 世界の戦艦』イカロス出版〈ミリタリー選書6〉、2005年9月。ISBN 4-87149-719-4 
  • 吉田満、原勝洋『ドキュメント 戦艦大和』文藝春秋社〈文春文庫〉、1986年4月(原著1975年)。ISBN 4-16-734902-7 
  • 歴史群像編集部編『アメリカの戦艦 「テキサス」から「アイオワ」級まで四〇余年にわたる発達史』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.58〉、2007年5月。ISBN 978-4-05-604692-2 

関連項目

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外部リンク

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